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「審(さば)きの日」ルカによる福音書17章20-37節

2023年10月15日
牧師 武石晃正

 日が傾くのが早くなったためでしょうか、ある日のこと夕立の後にとても鮮やかな虹を見ることができました。夏の青空にかかる虹も清々しく美しいものですが、茜さす雲の中に立ち上がる虹もまた青色や緑色が映えて宝石の輝きのようでした。
 聖書の中で虹と言えば、神様が二度と洪水で生き物を滅ぼすことをなさらないという契約のしるしです(創世記9:10)。この日の午後はノアの時代の洪水と後の時代に主が再び来られることを重ねて展望したような空模様でした。

 将来のことは子ども心には考えが及ばなくとも、聞かされていた親の小言がその歳になってみて身に染みるということがございます。未来について示された御言葉も今すぐにはは分からずとも、聞いていればその時になって気がつくことができるでしょう。
 キリストの日が来ることを覚えつつ、本日はルカによる福音書より「審きの日」と題して考えて参りましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.神の国はいつ来るのか
 「神の国はいつ来るのか」(20)という問いから始まる話ですが、その答えはファリサイ派の人々に限らず多くの人にとって小さからぬ関心事でありました。イエス様が地上におられた当時のユダヤの人々も21世紀に生きる私たちも、この点においては同じでしょう。
 ルカは「神の国」、マタイによる福音書では「天の国」と記されます。「神」という語は異教の神々を指しうるものですから、唯一なる創造主に関してはその名をみだりに唱えることを避けて「主」または御座を指して「天」あるいは「天の国」と呼ばれています。

 バプテスマのヨハネが現れて「悔い改めよ。天の国は近づいた」と荒れ野で宣べ伝えると、ユダヤには一大旋風が巻き起りました(マタイ4:3)。その後にナザレ人イエスが同じく「悔い改めよ。天の国は近づいた」(同17)とガリラヤで宣教を始めてから早3年余り、神の裁きもイスラエルの解放もなければ依然としてローマ帝国の支配下にありました。
 天の国が近づいている言いふらして人気を博しているももの、一向にその徴候さえみられないので偽メシアであろうとファリサイ派の人々は疑いをかけました。神の国がいつ来るのかを知りたいのではなく、「あなたが言うところの神の国とは一体いつになったらくるのかね」という皮肉のようです。

 対するイエス様の答えは「神の国は、見える形では来ない」、すなわち「見せろと言われて見せられるような性質のものではない」というのです。神の国が来るのは彼らが考えるように「ここにある」「あそこにある」(21)と特定の場所に限られていないということです。
 その上で「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と意外な言葉がイエス様の口から飛び出しました。もはやファリサイ派の人々の手中にあり、エルサレムに上れば捕らえられるばかりであるという意味合いにも取れる言い回しがなされています。

 ファリサイ派の人々の反応は記されておりませんが、続けて主は弟子たちに向けて「人の子」つまりご自身と「神の国」とを重ねて説かれ始めました。弟子たちとてこの時点では十字架さえも理解できておりませんので、ましてや世の終わりの出来事や「審きの日」など考えにも及ばなかったことでしょう。
 実に旧約聖書のコヘレトの言葉に「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(コヘレト3:11)とあるように、聖書は特に未来の出来事については断片的部分的に示しています。ある箇所では主の再臨の順序、別の箇所では新天新地の様子、本日の箇所では審きの日の有様に限って世の終わりについて教えられています。


2.キリストの日に備えて 
 「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」(ルカ17:22)とは、主が天に昇られてから再び来られるまでの期間です。使徒パウロでさえ主と出会うことを切望したように(テサロニケ一4:17)、私たちも今は「人の子の日」を見ることはできないので主の再臨を待ち望みます。
 ではその日には何が起こるのでしょうか、どのようにその日は来るのでしょうか。心を逸らせる弟子たちに対して、まず主は偽りのうわさに騙されないよう注意を促します。

 「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない」(23)とイエス様が弟子たちに戒めたことを、福音書の記者もマタイとルカがこぞって教会のために書き記しました。偽メシアや偽預言者が現れて人々を惑わすことを主が予め警告されたとおりに(マタイ24:24)、自らをキリストあるいはその生まれ変わりであると名乗った宗教家が多くの時代に教会の内外で起こりました。
 自身をメシアと名乗らずとも主の再臨がすでに起こったと説く者や、逆に主が再び来られることなどないと考える者もおりましょう(ペトロ二3:4)。しかしイエス様がおっしゃるには「人の子」は稲妻が大空の端から端へと輝くように現れるのですから(ルカ17:24)、誰にでも分かるように「その日」はすべての人の上に及ぶのです。

 すべての人に等しく一瞬にして訪れるので、誰か特定の人が「あそこだ」「ここだ」と言うまでもないのです。それと同時に見たいと望んでも見ることができないと言われておりますから、思いがけないときに審きの日がやってきます。
 それに先立って「人の子」であるキリストが多くの苦しみを受けて排斥されたのですから (25)、その体である教会も「人の子の日」「審きの日」に際して多くの苦難を受けることになります。それは教会を介してキリストに結ばれている一人ひとりも然りです。

 「その日」が突然やってくることは、神のさばきを伴う日として聖書では一番初めにある創世記から記されています。「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう」(26)「ロトの時代にも同じようなことが起こった」(28)とイエス様は2つの例を挙げられました。
 予め神の言葉を聞く機会があったのに、その時代の人々は無関心のまま「食べたり飲んだり、買ったり売ったり」という日常生活を送っていました。悔い改めて備えていなかった者たちは洪水に襲われ、不道徳な者たちは火と硫黄によって一人残らず滅ぼされました。

 御言葉を聞いても聞かなくても、聞いた上で無関心であっても、見た目には何ら違いのない生活をしているところに「人の子の日」が来るのです。同じ場所で2人が寝ていても1人だけが取られ、あるいは同じように2人が働いていても1人だけが取られ、他の者は残されると言われています(34-35)。
 見た目にも営みにも何ら違いのないように思われるのですが、その時に救われる者と除かれる者とが分けられるのだと言葉を変えて繰り返されています。イエス様が弟子たちに向けて語られたように、聖霊は福音書を通して私たちに向けて主に会う備えをせよと語られます。

 主はロトの妻について触れられております(31)。彼女は滅ぼされようとしていたソドムから逃れることができたのに、途中で振り向いたために塩の柱になりました(創世19:26)。
 せっかく救われようとしていたのに、彼女は心をこの世と同じところに置いていたので滅ぼされたのです。家財道具を取り出そうと戻ってはならないと戒めは(31)、「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(12:34)「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(16:13)と言われてきたことの繰り返しです。

 「自分の命を生かそうと努める者は」(33)とは、自分の力で生き延びようとしたり今の生活やこの世の富にしがみついたりする者を指しています。信仰を語っても目に見えるものやこの世における業績を神の国へ持ち込むことはできないのですから、これらのものがあなたの心の中を占めていないかと問われています。
 弟子たちが恐る恐る「主よ、それはどこで起こるのですか」(37)と尋ねると、主はハバクク書の言葉を引きながら「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」とお答えになりました (ハバクク1:8)。はげ鷹は死体を見つけると群をなして集まるので、どこであろうと条件さえ整えば必ず「人の子の日」は現れるという意味です。

 キリストご自身が再び来られる日のことを教えられていますが、私たち一人ひとりがそれぞれに世から取り去られる日も突然に来るのです。ですから使徒パウロもまた「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり(中略)神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(フィリピ1:10-11)と祈りをもって勧めています。


<結び>
 「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ペトロ二3:9)

 創造主なる神は人間が心の中に思うことは幼いときから悪であるとご存じであるので(創8:21)、洪水で滅ぼすことは二度としないとノアに契約を与えられました。そして国々に追いやられた民を導き上らせるために多くの漁師を遣わすと告げられたとおり(エレミヤ16:16)、主はご自分の弟子たちを「人間をとる漁師」とされました(ルカ5:10)。
 救いをもたらす漁師の後に多くの狩人が遣わされ、主の目に悪である者たちを岩の裂け目からでも狩り出されます。その日が来る前に主の漁師たちは「天の国は近づいた」と悔い改めを告げるのですが、狩人が遣わされたなら最早それまでです。

 審きの日は必ずやってきます。備えのない者やこの世の富と力に頼る者には災いの日ですが、御声に聞き主に従う者にとっては救いの日です。
 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:6)

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