「天国に市民権をもつ者」ルカによる福音書19章11-27節
2023年10月22日
牧師 武石晃正
1年間に日曜日は52回または53回ありまして、今年度の主日は53週ございます。そのうち教会暦で最も長く占めている聖霊降臨節は本日の第22主日までであります。
ペンテコステにおける聖霊降臨のできごとを起点として教会の働きを考えますと、いよいよこの主日をもって終わりの日あるいは天の御国への招きを覚える次第です。10月に入ってから続けて終末と神の国について福音書を読み進めて参りましたが、みなさんは主に迎えていただく備えはできているでしょうか。
今年の聖霊降臨節の最後の主日にあたり、本日はルカによる福音書より「天国に市民権をもつ者」と題して思いを巡らせて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
1年間に日曜日は52回または53回ありまして、今年度の主日は53週ございます。そのうち教会暦で最も長く占めている聖霊降臨節は本日の第22主日までであります。
ペンテコステにおける聖霊降臨のできごとを起点として教会の働きを考えますと、いよいよこの主日をもって終わりの日あるいは天の御国への招きを覚える次第です。10月に入ってから続けて終末と神の国について福音書を読み進めて参りましたが、みなさんは主に迎えていただく備えはできているでしょうか。
今年の聖霊降臨節の最後の主日にあたり、本日はルカによる福音書より「天国に市民権をもつ者」と題して思いを巡らせて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.国民に憎まれた王のたとえ
朗読いたしました箇所について聖書新共同訳を見ますと、小見出しに「『ムナ』のたとえ」と付されています。同様の出来事を記した並行箇所としてマタイによる福音書の25章14節以下が示されており、そこでは「『タラントン』のたとえ」が扱われております。
ムナもタラントンもどちらも当時のギリシアの貨幣単位ですが、ムナのたとえよりもタラントンのたとえのほうが広く用いられることがあるでしょうか。たとえの中でのタラントンは賜物すなわち神様から受けた才能や技能を指しており、「タレント」という外来語が日本語にも入ってきています。
似たような教えではありますが、ルカのほうは「王の位を受けて帰ってきた人」あるいは「国民に憎まれた王」の話の間に「ムナ」のたとえが挟み込まれております。ですから「国民に憎まれた王」のたとえと「ムナ」のたとえに区切って考えてみましょう。
「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」(12)ということですが、これは当時のローマ帝国で実際にあったことです。ローマの元老院はある国や地域を治めさせるため、その地の貴族を王として任命しました。
イエス様が世にお生まれになった年代にユダヤを治めていたのはヘロデ大王です。彼も「立派な家柄の人」であり、ローマの元老院へ遥かな旅に出て王の位を受けました。
たとえにおいて「国民は彼を憎んでいた」(14)と言われているのはヘロデ大王ばかりでなく息子のアルケラオも然りです。彼が王になることに反対したユダヤの人たちは「我々はこの人を王にいただきたくない」と使者を送ったのですが、ヘロデ大王もアルケラオも王位を受けて帰国するなり反対者たちを処刑したということです。
直接には王の名前は挙げられておりませんが、当時のユダヤの人々であればすぐに誰のことかが分かるようにイエス様はこのたとえを話されました。自身もまた律法の専門家たちやファリサイ派の人々から憎まれているのだ言われているのです。
ところでイエス様がエリコの町からエルサレムを目指して上られたのは過越祭あるいは除酵祭と呼ばれれるユダヤの祭の時期でした。かつてイスラエルがエジプトから救い出されたことを記念する祭ですので、ここで救い主メシアと噂される男がエルサレムへ上るとなれば奇跡によって神の国を現すのではないかと期待するのも無理のないことです。
しかしイエス様はご自身が栄光の座に着くのは天使たちを従えて来るときであるので(マタイ25:31)、そのためには王の位を受けるために一度この世を去らなければならないと告げられました。この方をユダヤ人の王として受け入れなかった者たちから不当にも訴えられ、異邦人の手に引き渡され、十字架上で命を奪われたのです。
葬られて3日目によみがえられた主は天に昇り、今は全能の父なる神の右の座に就いておられます。この方が王の位を受けてご自分の国に帰って来られるのです。
そしてその日、主は僕たちにこう言われます。「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」
主イエスの支配を拒む者、この方の救いを受け入れない者はキリストが再び来られる日に一体どんな目に遭うのでしょうか。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と主キリストは生きている者たちを招かれます(ヨハネ20:27)。
2.1ムナを預けられた僕たち
ひとつながりの教えを始められるにあたり、「エルサレムに近づいておられ」たことと「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていた」ことが前提にありました(11)。旧約に示された救いの完成、神の国の成就のためには主ご自身がこの世を去らなければならないということを示そうとされています。
ご自身が死んだ後、復活して天に昇られてからのことについて、主は弟子たちにムナのたとえを説かれました。ここでは10人の僕と書かれていますが、キリストの弟子たち各々に等しく1ムナが託されます。
1ムナが現代の日本でいくらであるかと単純には換算することができないとしても、大きく見積もっても数百万円にもならない金額です。タラントンであれば事業を興せるほどの大金ですが、1ムナでは「ちょっとした商いでもしていなさい」という程度でしょう。
王として帰って来た主人に対してある者は1ムナから10ムナを、別の者は5ムナをその成果として報告しました。「これで商売をしなさい」との命令に従ったのですから、御言葉を聞いて100倍、60倍、30倍の実を結ぶもの (マタイ13:23)に通じます。
主人が僕たちを評価した点はいくら稼いだかではなく「ごく小さな事に忠実だった」(17)ことにあります。そして王の位に就いた今、「十の町の支配権を授けよう」(17)「お前は五つの町を治めよ」(19)と更にまさったもの(ヘブライ11:40)を与えました。
たとえ10ムナを稼ぎ出したところで家を1軒建てられるかどうかの金額ですので、町の支配権は働きの対価としての報酬ではありえないのです。「良い僕だ」と呼ばれた者たちもまた小遣いには多すぎる金額を任されたとは言え、要領よく遣り繰りしたところで町の支配者になれるとまでは想像できなかったことでしょう。
タラントンのたとえとは異なり1ムナは僕たち一人ひとりに渡されているので、キリストに従う者たちに等しく与えられている救いの恵みや委ねられた福音を示します。従って「布に包んでしまっておきました」(20)と答えた僕は、実に「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と命じられながらも「ともし火をともして升の下に置く者」であるのです(マタイ5:15-16)。
決して主人に背いたり逆らったりしたわけではないのですが、この僕は忠実さに事欠いていたということです。「その言葉のゆえにお前を裁こう」(22)と言われているように、主人を「厳しい方なので、恐ろしかった」(21)と思っていました。
しまいには「その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ」(24)「だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」(26)と主人から懲らしめを受けることになります。それでも「悪い僕だ」と呼ばれても僕であることには変わりありませんから、この主人を憎んで王になることを反対していた者たちへの扱いとは明確な一線を画しています。
「打ち殺せ」と言われている者たちと悪い僕と呼ばれた者との違いは一体どこにあるのでしょうか。それはこの地の国民であるか、王の位を受けた主人の僕であるかの違いです。
王の位についてヘロデ大王を例に取りますと、治めるべき国であるユダヤの権威ではなくローマの元老院によって任じられました。そして当時のローマ帝国においては市民権をもつ者はローマ法によって守られていました。
この地の国民である反対者たちはヘロデ大王の手によって打ち殺されるとしても、市民権をもつ者は鞭で打たれることさえ免れるのです(使徒22:25)。主イエス・キリストがローマの元老院ではなく天の御国で王の位を受けたのですから、天国に市民権をもつ者は主が再び来られる日にも滅びを免れるのです。
たかが1ムナされど1ムナ、「悪い僕だ」と言われたとしても3番目の僕は主人から預かったものを亡くさないで守っていたのも事実です。懲らしめを受けることがあるにせよ、「あの敵ども」と呼ばれて打ち殺されるこの地の国民とは区別されます。
もちろん1ムナから10ムナせめて5ムナを生み出して「よくやった」と主人の言葉をいただくことができれば幸いです。それだけの成果を上げた僕が10人のうち何人いたのかを触れていないのは、この教えの懐の深さのようです。
<結び>
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブライ12:2)
私たちの主が天の御国で王の位を受けたので私たちの本国もこの世ではなく天にあります。キリストの十字架によって罪の支配から解放され、天の市民とされました。
再び来られる日まで主から受けた恵みを布に包んで隠しておかず、生き生きと用いることができるでしょうか。主キリストを王として迎えない者たちに厳しい裁きが下る日が来るとしても、天国に市民権をもつ者は滅びを免れるのです。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ3:20)