「御子による創造」ヨハネによる福音書1章1-18節
2023年10月29日
牧師 武石晃正
今週からしばらく教会暦は降誕前の主日を数えます。ご降誕を待ち望む待降節に先立って、主がキリストとして世にお生まれになる以前からある救いのご計画について思い巡らせたいところです。
聖霊によって宿り、母マリアを通してお生まれになった方ではありますが、生まれてきたイエスという子どもが優れていたから神に選ばれたということではないのです。世に現れる前から御子は御父のもとにおられたことを覚えつつ、本日はヨハネによる福音書を開き「御子による創造」と題して御言葉に取り組んで参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
今週からしばらく教会暦は降誕前の主日を数えます。ご降誕を待ち望む待降節に先立って、主がキリストとして世にお生まれになる以前からある救いのご計画について思い巡らせたいところです。
聖霊によって宿り、母マリアを通してお生まれになった方ではありますが、生まれてきたイエスという子どもが優れていたから神に選ばれたということではないのです。世に現れる前から御子は御父のもとにおられたことを覚えつつ、本日はヨハネによる福音書を開き「御子による創造」と題して御言葉に取り組んで参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.「初めに」
ヨハネによる福音書として知られる本書が記された年代は早くとも紀元90年代、主の昇天から60年が経った後のことです。教会は使徒言行録にある大迫害を受けた後も、ローマ皇帝ネロの治世における迫害を含めて長きにわたって苦しみを受けていました。
紀元70年にはエルサレムが陥落するとユダヤ人は各地へ散らされ、神の民イスラエルが地上の表舞台から姿を消しました。初期の教会も地上における拠り所の一つを失い、またイエス様から直接に教えを受けた世代の弟子たちが次第に天に召されていった年代です。
迫害と困難の中、それでも神の国の福音はユダヤとサマリアの全土から溢れて全世界へと広がっていきました。イエス様も弟子たちもユダヤ人であり律法の規定の中で生きていましたが、旧約を背景に持たない異邦人すなわち非ユダヤ人たちが神の国の福音を受け入れるようになっていきます。
異文化の中でイエス・キリストを信じる人々が増える一方、神様がイスラエルを通して与えた契約ではなくこの世の考え方を物差しとした教えが現れました。例えばキリストは神であり神は霊であるから、この方が朽ちるべき肉体に宿るはずがないという極端な二元論による考えです。
これによれば弟子たちあるいは使徒と呼ばれる集団が実際にキリストを見たのではなく、神の霊によってキリストの知識を得たに過ぎないとされるでしょうか。ユダヤの国もなくなり、生き証人である使徒が世を去ってゆく年代ですから、主に会ったことのない民族と世代が真理から耳を背けていくのも不思議のないことです。
主イエスと実際に道を歩み、寝食も苦楽も共にした弟子が「イエスの愛しておられた弟子」(21:20)として筆を執りました。わざわざ「主の愛しておられた」と名乗ったのは自身がたとえ最後の一人になろうとも、主が「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)ことを嘘にされたくなかったことの現れでしょう。
一緒に暮らして親しく支え合った人のことを「そんな人はいたはずがない」「教えとしては立派だけれど理想像に過ぎない」などと言われたら、あなたならどれほど悲しみと悔しさを抱えると思われますか。当時すでに教会の中で広く伝わっていたイエス・キリストの福音とは別に、この「主が愛しておられた弟子」は実際にその場にいた者しか知ることができない主イエスについてこの福音書を書き起こしたのです。
まさか誰も歩いていないのにバプテスマのヨハネが道端を指さして「見よ、神の子羊!」などと言うはずはありませんし、彼の弟子たちも存在しない人について行くことはできないのです。主は確かに「わたしたちの間に宿られた」(14)ので、この弟子は「初めに」(1)と全ての事の始まりから神の真理を綴っています。
2.言の内に命があった
「初めに」(1)と福音書はキリストであるナザレ人イエスについての証言を始めるのですが、この「初めに」とは聖書の最初の一語であります。創世記1章1節は「初めに、神は天地を創造された」と世界がまだ何もなく時間や空間というものさえない時に、始まりもなければ終わりもない人知の及ぶことのない永遠からの一言です。
ところで古代ギリシアの哲学者たちは言葉によって全ての理(ことわり)を説き明かせると考えていたそうです。当たらずとも遠からず、天地創造において創造主なる神は「光あれ」(創世1:3) 「水の中に大空あれ」(同6)「乾いた所が現れよ」(同9)と、御言葉によってすべてのものをお創りになりました。
天地創造において発せられたのですから、それ以前に「言は神と共にあった」のです。そして時間の流れさえ始まる前に「あった」ので、「言は神であった」と言われます。
「言(ことば)」と訳されている語は元の言語ではロゴスというギリシア語が用いられております。福音書が書かれた当時のギリシア哲学に傾倒していた人々も、「成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(3)「言の内に命があった」(4)というところまでは大きく頷きながら聞くことができたでしょう。
こうして福音書は次代の知恵ある者たちに真理を説き進めます。「神から遣わされた一人の人がいた」(6)とバプテスマのヨハネに述べることにより、読者が生きている時代における現実として「言」である天地創造の主が関わっておられることを明らかにしました。
本題である神の御子キリストについて語るにあたり、このヨハネは欠かすことのできない人物です。仮にキリストと呼ばれたナザレ人イエスの実在を否定する立場の人であっても、バプテスマのヨハネを否定することはできないからです。
ファリサイ派やサドカイ派の人々でさえ大勢がヨハネの洗礼を受けようとしたのであり(マタイ3:7)、領主ヘロデが彼を捕えて殺したのです(ルカ9:7)。歴史上否定しようもないのですからヨハネの存在は真であり、その証言もまた真なのです。
従って天地創造の「言」ロゴスであり、命であり、まことの光である方は間違いなく世に来て自分の民のところへ来たのです(ヨハネ1:9,11)。そしてヨハネが「わたしの後から来られる方」と呼び「わたしよりも先におられた」と証言しました (15)。
キリストはその存在を否定されることもなければ、人として世にお生まれになる前からおられた方です。天地創造の神と申しますとあまりにも大きすぎて私たち人間が思い浮かべることさえ叶いませんから、命である、光であるとご性質が示されます。
命の対義語は何でしょうか、光に対立するものは何でしょうか。死は罪すなわち神の御心に従わないことによる報いであり(ローマ6:23)、暗闇はひとたび全地を覆ったことのある(創1:2)神を理解しない性質のものです(ヨハネ1:5)。
命とも光とも呼ばれる「言」である御子によって世界のすべてが創られたのですから、御子はすべてのものの所有者であるはずです。ところが、死と暗闇という罪の支配を受けている世はこの方を認めず、受け入れないのです(10,11)。
それでも神はバプテスマのヨハネを遣わすことにより、すべての人が彼によって命であり光である方を信じるようになることを望まれました。しかしながら「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(11)とあるように、最初からキリストを理解して受け入れたという人は私たちの中にも何人おられるでしょうか。
これほど頑なな私たちであるのに「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」というのですから、実にそれは恵みであり、「恵みの上に、更に恵み」です(16)。
それも「満ちあふれる豊かさの中から」の恵みです。すべての物をお造りになって「見よ、それは極めて良かった」とおっしゃった方の恵みですので、世界を覆っても余りある豊かなものです。
創造の御業は創世記すなわち律法としてモーセを通して与えられました。「言」による創造という神の恵みと真理が、いよいよ時満ちてイエス・キリストとして世に現れました。
使徒パウロは次のように記しています。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロサイ1:13)
御子を信じた者について「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(13)と明かされています。神によって生まれたとはすなわち御子による創造であるので、何者もこの方が示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです(ローマ8:39)。
<結び>
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)
もしガリラヤのナザレという町で育ったイエスという人物がその信心や業績のゆえにキリストとして認められたのだとすれば、この方が葬られて3日目によみがえったところで罪人である私とは何の関りもないことでしょう。見えない神の姿でありすべてのものが造られる前からおられる御子が人として生まれてくださったので、肉によって生まれて死と暗闇という罪の支配の下にある者を救うことがおできになるのです。
万物は御子によって御子のために造られたので、造られた者がこの方を信じるならまことの光と命をいただくことができます。御子による創造のゆえに、私たちは「言」を信じることでキリストを見たことがなくても御子イエスを愛し信じているのです。
「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」(コロサイ1:16)