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「永遠の命を得る」ヨハネによる福音書3章16-21節

2023年11月5日
牧師 武石晃正

 日本基督教団は教会暦において11月の第1主日を「聖徒の日」と定めています。ここでいう聖徒とは既に御許へと召された信徒を指しますので、宇都宮上町教会でも召天者を偲びつつ「聖徒の日記念礼拝」として主日礼拝を捧げます。
 召された魂は既に御父の御旨のままですから、他の宗教のように供養などの儀式をする必要はなく、主にある生涯を全うされた先人たちの歩みを記念いたします。同時に世にあって既にキリストの救いを受けた者たちは神の国を嗣(つ)ぐ望みを新たにし、そしてまだ主イエスを受け入れていない方々へキリストの復活の力を証しするのです。

 今年は2月に私たちが愛してやまなかった姉妹が召されました。祈りの人であり、生涯を通して富も力も主に捧げた人としての道を残してくださいました。
 ほかにも講壇の前には召された聖徒たちを記念する写真が並べられております。これらの方々がいつも神の御前で憩いと慰めを受けていることを覚えつつ、本日はヨハネによる福音書を開き「永遠の命を得る」と題して御言葉の恵みを味わいましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.初めの愛 
 私たちが手にしている聖書は日本語に訳されたものですが、原典において旧新約聖書は、「神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典」(日本基督教団信仰告白)です。
 その聖書の最初の書である創世記は「初めに、神は天地を創造された」と、この宇宙の始まりから神が全てを造られたことを証ししています。「光あれ」(創世1:3) 「水の中に大空あれ」(同6)と神は御言葉によってあらゆるものを創造した上で、「それは極めて良かった」(同31)と言われた世界に人類をもお造りになりました。

 地上にまだ草木も生えていなかったところに神様はエデンの園を設けられました。そこへ見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせてから、人をエデンの園に住まわせてくださったのです(創世2:9,15)。
 園を守らせるばかりでなく「園のすべての木から取って食べなさい」(同16)と、極めて良かった世界の中で不自由のないように神様は人を育んでくださいました。ご自身で作られた素晴らしい世界を味わい楽しみ喜ぶ存在として人間を造ってくださったのです。

 食べ物のことばかりでなく「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(18)と伴侶を必要とすることも神様は心にかけてくださいました。命の恵みを共に受け継ぐ者として(ペトロ一3:7) 創造主は初めから人を男と女とにお造りになった(マタイ19:4)のです。
 どれほど神様は私たち人間のことを愛してくださったことでしょう。もちろん天地創造の日にはここにいる私たちの誰ひとりとして生まれていなかったわけですが、人もまた子や孫が生まれる前から迎える備えのために愛情を注ぎ幸せを願うものです。

 仮に天地がひっくり返るようなことが起こったとしても、創造主なる神様はご自分が作られた者を愛してやまないのです。そのご愛の深さは御子が人として世に来られた時にも「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)ほどです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(同3:16)


2.罪と死の支配 
 創造の御業、いうなれば神様が全身全霊によって被造物のなかでも人間を特別に愛してくだいました。あなたにもその愛は注がれているのですが、いつから私たちは神様のご愛を知ることができなくなってしまったのでしょうか。
 天地が創造されたとき、ひとたび全地を暗闇が覆いました(創世1:2)。「暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)と言われているように、光であり命の源である神を受け入れない性質のものが神と人との間に入りこもうとしていたのです。

 神に逆らう者「悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(黙12:9)として蛇がエデンの園に入りました。そして「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世2:17)と禁じられていた「善悪の知識の木」から取って食べるよう、人間をそそのかしました(同3:1-5)。
 そそのかされたとは言え、自分の目で見て手で取って人は「善悪の知識の木」の実を食べました(同6)。自分の意思で神を理解しない暗闇の性質を受け入れ、神に背いたのです。

 口を拭って悪事を隠そうとしても、神様は全てをご存じです。愛してやまない人間を捜すために主なる神は園を歩いて来られました(8)。
 福音書が「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)と告げるように、この時も主はアダムとエバを助けるためにわざわざ歩いて来られたのです。「どこにいるのか」とアダムを呼ばれました(9)。

 するとアダムとその妻は恐ろしくなって主なる神の顔を避け、園の木の間に隠れました(10)。光である神を避けて身を隠すことは、実に「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」(ヨハネ3:19)と言われているとおりです。
 光であり命である創造主を避けること自体、その恵みを受けられないのですから裁きであり罰であるのです。あなたは今アダムのように神の御顔を避けていたり、暗闇の中で光である方を憎んだりしていないでしょうか。

 暗闇に住んでいる生き物は光を嫌う性質を持つものが多いようです。庭の踏み石や側溝の蓋などを開けますと、光が差した途端そこにいた足の多い虫や足のない虫たちが慌てて身を隠そうとするものです。
 虫たちが悪いことをしていたというわけではなくとも、暗闇を好んで光を憎むという性質が示されます。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」(ヨハネ3:20)と福音書が示すごときです。

 ところで神が人をお造りになった際に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世2:27)と祝福されました。ところが戒めを破ったアダムとエバがエデンの園を追放されたことにより、産んで増えても「必ず死んでしまう」者たちがこの地を満たしました。
 そこで父のふところにいる独り子である神が世に来られ、恵みと真理がイエス・キリストを通して現れされました(ヨハネ1:17-18)。エデンの園でアダムたちを捜しに来られたように、私たちを裁くためではく救い出すためにキリストが世にお生まれになりました。

 そればかりか罪のない方なのに私たちのすべての罪を背負って、身代わりとして十字架の死を遂げられました。この方が葬られて3日目によみがえられたので、死に打ち勝つ永遠の命を与えることがおできになるのです。
 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(同3:18)


3.永遠の命 
 ヨハネによる福音書には「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」(15)とキリスト自身のお言葉を記しています。「永遠」と訳されている語は時間的に永続するという意味もあるのですが、途切れることがないという質的な意味も含みます。
 時間的な意味での「永遠」は終わりのないことですので、既に天に召された聖徒たちが神の御前に憩うことを思い浮かべるところです。他方、質的な意味での「永遠」は時間の長さに関わらず絶え間なく続くことや変わることがないということを指します。

 キリストの血による新しい契約には期限切れの心配も更新する煩わしさもないことは「永遠」であると言えましょう。私たちが生きていても死んだ後も変わることなく保証されている命です。
 いくら長続きをして変わることのないものだとしても、ボロボロでガタガタの錆びついたような命では困りものです。しかし御子は創造主なる神でありますから、「極めて良かった」と言われた天地創造における生き生きして新鮮な命に造り変えてくださいました。

 ですからキリスト自身が「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招いてくださったのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)との招かれたイエス・キリストは、「憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる」(詩23:2-3)救い主です。
 命がその人を生かすのですから、永遠の命を受けている人はその性質が生き方に現れます。「その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになる」(ヨハネ3:21)と書かれているように、永遠の命は死んだ後の世界のことだけでなくむしろ今の世にあって途切れることなく私たちを生かす命です。


<結び>
 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」(一ヨハネ5:13)

 この言葉は「主が愛された弟子」が愛する者たちへ、そして聖書の言葉を受けた私たちへ書き送った使信です。既に召された方々には今さら何かを申し上げることもできかねますが、世にあるキリストの弟子たちには御言葉が与えられています。
 初めの愛、天地創造から変わることのない神のご愛を受けとっていますか。神の愛と永遠の命を得ているので、「真理を行う者は光の方に来る」(ヨハネ3:21)のです。

 永遠の命を得る者はキリストを信じ生涯を通して信仰の戦いを戦い抜いく者です。永遠の命によって生かされる者は、その行いも神に導かれてなされたと明らかにされるのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

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