「救いの約束」出エジプト記2章1-10節
2023年11月19日
牧師 武石晃正
教会暦では今月から降誕前の週を数えておりまして、本日は降誕日(クリスマス)からさかのぼって第6主日に当たります。降誕前でありますので主がご降誕以前に示されたみわざを覚えつつ、救いのご計画について主に旧約から思いめぐらせるところです。
新約においてもしばしば「天地創造の前から」あるいは「天地創造の時から」との言い回しが用いられております。主はイエス・キリストとして降誕によって世に現われてくださったわけですが、この方を知るには創世記から始まる旧約に照らすことでより深められるところです。
先週の創世記に続き今週は出エジプト記を開き、神の人モーセの出生について読みました。この箇所を足掛かりとし「救いの約束」と題して御言葉を思い巡らせて参りましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
教会暦では今月から降誕前の週を数えておりまして、本日は降誕日(クリスマス)からさかのぼって第6主日に当たります。降誕前でありますので主がご降誕以前に示されたみわざを覚えつつ、救いのご計画について主に旧約から思いめぐらせるところです。
新約においてもしばしば「天地創造の前から」あるいは「天地創造の時から」との言い回しが用いられております。主はイエス・キリストとして降誕によって世に現われてくださったわけですが、この方を知るには創世記から始まる旧約に照らすことでより深められるところです。
先週の創世記に続き今週は出エジプト記を開き、神の人モーセの出生について読みました。この箇所を足掛かりとし「救いの約束」と題して御言葉を思い巡らせて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.モーセの出生
「初めに、神は天地を創造された」(創世1:1)と聖書は天地創造のみわざから始まります。「極めて良かった」と創造主ご自身が満足された出来栄えの世界であったのに、私たち人類の祖であるアダムとエバは主なる神様に背いてしまったのです。
エデンの園を追放され神の御顔を仰ぐことができなくなった人類は朽ちる体と死ぬべき命をもって地上に満ちあふれました。「人が心に思うことは、幼いときから悪い」(創世8:21)ということを十分にご存じの上で、それでも主なる神は私たち人間をお見捨てにならず救いのご計画を備えてくださいました。
後にアブラハムと名乗ることになるアブラムを見いだし、主なる神は多くの民の中から選ばれました。そして彼を現在はパレスチナと呼ばれている地域、当時のカナンへと移り住ませて「あなたの子孫に与える」(創22:18)と祝福の源を約束されました。
カナンの地はとても豊かでありましたが、ある年から飢饉が続きました(創41:56)。アブラハムの孫の世代は主のご計画のうちにエジプトへと移り住むことになりました(同46:1)。
アブラハムの子孫たちがエジプトへ移住してから400年あまり経ちました。もともと寄留者として移住してきた民族が定住しては、人口が100万人200万人と増えていきます。
栃木県の人口が約190万人であることに迫りますから、アブラハムの子孫たちが一つの小国に値する規模に膨れ上がったことが分かるでしょう。反乱を懸念したエジプトの指導者たちはこの民族を厳しく扱うようになりました(出エジプト記1章)。
出エジプト記の話はここから始まりまして、アブラハムの子孫たちは寄留者、さすらう者という意味で「ヘブライ人」と呼ばれます。ヘブライ人の家に男の子が生まれたら全てナイル川に投げ捨てるよう、エジプトの王ファラオは命令を下しました(1:22)。
エジプトに住むヘブライ人において「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった」と話は切り出されます。この2人に男の子が生まれたのですが(2)、男の子が生まれてしまった、女の子であったならば我が手で育てられるのに、と両親は心を痛めるのです。
3か月は何とか隠し通せたものの、その頃になれば泣き声ひとつにしても男の子らしさが現れることでしょう。先に生まれた子どもたちの様子にしても、周りから見ればどうもおかしいと気づかれてしまいます(3)。
王の命令は「ナイル川にほうり込め」というものでしたから、とにかく川べりまでは男の赤ちゃんを連れていく必要がありました。繊維で編まれた籠をアスファルトと樹脂で防水したのは、ともすれば親切なエジプト人に拾われるかとの淡い期待の現れでしょう。
水浴びをしようと川に下りて来たファラオの王女が人目を避けるため葦の茂みに身を隠したところ、ちょうどそこに赤子が寝かされている籠がありました(5)。赤子をふびんに思った王女は自分の名のもとに養育することを決めました。
たまたま王女が通りかかったように思われるわけですが、背後では天地創造の神が歴史の中に御腕を伸ばしてファラオの家をも動かしたのです。そして一部始終を見ていたこの子の姉の申し出により、不思議にも実の母親が乳母として育てることになりました(7-9)。
王女がこの子をモーセと名付けるにあたり「水の中からわたしが引き上げた」(10)すなわち彼女自身が取り上げたのだと宣言しました。本来であれば生まれてきたヘブライ人の男の子は死ななければならないところを、王女が水から引き上げたので助かったのです。
何歳までモーセが実母の下で育てられたのか定かではありませんが、乳飲み子であるうちから何年かはアブラハムの神に祈ることを肌で身に着けることができました。その後、正式に王女の子とされるとエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者としてイスラエルを救い出す備えがなされることになります(使徒7:22)。
2.救いの約束
水の中から引き上げるという行為は聖書の記述において天地創造の御業と深く関連しています。使徒ペトロが示すように「地は神の言葉によって水を元として、また水によってできた」 (ペトロ二3:6)のです。
創造主なる神は水の中から乾いた地を作られました。ノアの時代には主が不信心な者たちの世界に洪水を引き起こしたので当時の世界は洪水に押し流されて滅びましたが、その水による洪水の中から新しい地が現われました。
洪水の後で主なる神はノアに対して「水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」(創世9:15)と誓われました。ノアたち8人だけが水の中を通って救われたのです(ペトロ一3:20)。
モーセもまたその名の由来であるように水の中から上げられた人です。水の中から生み出されるという創造のみわざによってモーセが生かされ、主が彼を用いたので「信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました」(ヘブライ11:29)。
また水の中を通らせ水の中から引き上げるという型による救いのわざは、モーセの跡を継いだヨシュアにおいても現されました。約束の地カナンへ渡るにあたりヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたにも関わらず (ヨシュア3:15)、主なる神は約束どおり全イスラエルは干上がった川床を渡らせました(同17)。
この時も干上がった川床すなわち「かわいた地」(新改訳)が水の中から現れました。このように水の中から引きあげるという天地創造の御業を用いて、主はノア、モーセ、ヨシュア、また預言者ヨナを通して約束の確かさを段階的に示されました。
主なる神はその都度に幾度と祝福と共に契約を更新し、救いの約束を確かなものとされました。新約に入ると「主の道をまっすぐにせよ」「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説くバプテスマのヨハネがヨルダン川沿いの荒れ野に現れました。
イエス・キリストがヨハネのバプテスマを受けるため水の中に入られたのは、私たちと同じく罪人の一人として数えられるためでした。主が「水の中から上がられた」(マタイ3:16)ときに神の霊が鳩のように降って来たことは、実に創世記の初めにおいて「神の霊が水の面を動いていた」(創世1:2)ことに重なるのです。
今は天に昇られ父なる神の右に座しておられますが、復活の主キリストは「言葉を伴う水の洗いによって」(エフェソ5:26)教会を清めて聖なるものとされます。御言葉によって、また水の洗いをもって救い確信が与えられます。
律法が与えられる以前から既に救いの約束は創造主なる神様から選ばれた民へと与えられていました。神の救い、新しい創造のみわざは水の中から起こされます。
救い主キリストは水によって世に御自分を現わされましたが、水だけでなく十字架で流された血によって新しい契約をお与えになりました(ヨハネ一5:6)。こうして主イエス・キリストを信じてその血による新しい契約を信じる者は、水と霊のバプテスマによって救いの恵みを受け取るのです。
<結び>
「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」(ヨハネ6:35)
かつて神の人モーセを通して神は天からのパンをイスラエルに与えました。水の中から上げられたモーセは荒れ野で人々にパンを食べさせましたが、水の中から上がられた主は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54)と救いの約束を賜りました。
しかしながら大いなる水面の中から作り出されたのは乾いた地面であり、その土から作られた人間は朽ちる食べ物を得るのです。顔に汗を流してパンを得ては、造られるために取られた土あるいは塵にすぎない者として塵に返ります。
初めの世界が洪水に押し流されて滅んでしまったとき、水の中を通って救われるのだとノアを通して主なる神はお示しになりました。またモーセにおいてナイル川また葦の海の水を通すことで、神はご自分の民をお救いになることを世に示されました。
救いの約束が天地創造の前から神のご計画であったことを水によるバプテスマは証しします。だれでもキリストを信じて聖霊を受けた者は、水で洗礼を受けるとき救いの約束を確かなものとして受けるのです(使徒10:47)。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)