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「主は我らの救い」エレミヤ書23章1-6節

2023年11月26日
牧師 武石晃正

 11月も最後の主日となりました。来週からはアドヴェント(待降節)、クリスマスと新年が近づいて参ります。
 待降節には書いて字のごとく降って来られる方を待つことに備えるわけですが、待ち人がどなたであるのか知らなければ行き違いや待ちぼうけとなることでしょう。降誕前から既に与えられていた聖書、いわゆる旧約に立って改めて救い主がどなたであるのか思いめぐらせるところです。

 先週まで旧約の中でも律法あるいはモーセの書とも呼ばれるうちの創世記と出エジプト記から2週続けて読みました。本日は預言者の書のうちエレミヤ書を開き、「主は我らの救い」と題して降誕前の御言葉を聞きましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.律法と預言者の書 
 はじめに私たちが手にしている聖書について、その中でも律法と預言者の書について少し考えてみましょう。宇都宮上町教会を含むプロテスタント教会が用いる聖書は、正典として旧約39巻と新約27巻の計66巻から成っています。
 イエス・キリストによる新しい契約をもって新約と申しまして、これに対し以前から与えられていた神様の契約を旧約と呼んでおります。新約がまとめられる以前は旧約とは言わずに、「律法と預言者の書」(マタイ7:12ほか)と呼ばれておりました。

 律法という響きは法令や掟のような固い響きがございますが、先の区分としては創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つの書を指しています。神の人モーセに現れた天地創造の神ご自身が「口から口へ、わたしは彼と語り合う」(民数12:8)と言葉によって明らかにされた命令が記されています。
 「預言者の書」はその名の通り神様から言葉を預けられた者たちについて記された書でありまして、預言者たちの名前が冠されている書のほかに列王記が含まれます。「主なるわたしは幻によって自らを示し/夢によって彼に語る」(民数12:6)と言われており、預言者たちは幻や夢をとおして神様から示されたことを語りました。

 創世記の冒頭で初めの人アダムとエバが神に背いて罪ある者となったので、その子孫であるすべての人類が罪と死の支配下に置かれてしまいました。それでも主なる神はノアやアブラハム、モーセなどを選び、創造の御業とご自身の名に懸けて救いの約束を示されたのが旧約です。
 救い主メシアが世に遣わされる約束は預言者たちを通して与えられました。その中でもよく知られているイザヤ書には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」(イザヤ9:5)などのメシア預言が多く記されています。

 「ダビデの王座とその王国」(同6)がメシア預言の鍵であり、ダビデ王その人が詠んだ詩編の中にも救いの約束が語られています。そして主イエス・キリストご自身が「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」(ルカ24:44)と弟子たちに告げられました。
 ですから私たちは新約と併せて旧約から読むことによって、救い主キリストをより深く知ることになります。
 

2.主は我らの救い
 神の救いの約束が律法と預言者の書に示されていることを覚えつつ、朗読したエレミヤ書の御言葉を思い返しましょう。「災いだ」(23:1)と訳されている語は音訳すれば「ホーイ」、すなわち「ああ」と悲嘆する感嘆詞をもって一連の預言が始まります。
 あまりの身勝手な権力者たちに言葉も出ない、嘆きとため息しか出ないといった深い悲しみと憤りの現れです。そして国の指導者たちを「わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たち」(1)と呼び、「わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった」(2)と主は厳しく追及されます。

 ここで牧者たちと呼ばれている権力者は神の言葉に耳を傾けず、自分たちの正義を主張するあまり預言者を虐げては民を散らす者でした。ところがいくら彼らがエレミヤを捕えて監禁しては苦しめ、力を振りかざしては民を散らしたとしても、主みずからが残った羊を集める牧者を立てるのです(3,4)。
 真の牧者である主イエスが来られた時、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」(ヨハネ10:16)と語られたことで「群れの残った羊」について明らかにされました。散らされている国々から羊を集めるため、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:20)と使徒たちに命じたのです。

 来たるべき牧者について主は「わたしはダビデのために正しい若枝を起こす」(5)と誓われています。「若枝」とは新芽であり、枯れたように見えた木の根元から生える「ひこばえ」です。
 エッサイの子によって樹立されたダビデの王座が一度は断たれることになりますが、枯れたように見えた根元から若枝として正しい王が興されます。預言者の言葉のとおりゼデキヤ王がバビロンへ引かれて行ったことでダビデの王座はエルサレムから断たれましたが(52:11)、後の時代に主はヨセフの許婚のマリアをとおして、人々が思わぬところから「ダビデの子」「ユダヤ人の王」として救い主を世に遣わされました。

 「正しい若枝」が王として国を治め、そこで「主は我らの救い」(6)と呼ばれます。救いと訳されている語は「義」「正しさ」という意味があり、実にこの若枝にふさわしい名です。
 アブラハムが信仰によって義とされたように、この方を信じる者は信仰によって義とされます。全く同じ言い回しで33章にも重ねて記されておりますから(33:15-16)、主は救いの約束をますます確かなものとされています。


3.預言者エレミヤとキリスト
 本書エレミヤ書のほかにも旧約では神の民イスラエルについて救いの約束が度重ねて記されています。しかし主なる神様は単に言葉だけを与えたのではなく、預言者たちと共に歩まれる中で語られました。
 時代について述べますと、エレミヤは最初の預言をヨシヤ王の第13年(BC627/626)に授かりました(1:2)。彼が生まれたのは先王マナセの時代であり「主がイスラエルの人々の前で滅ぼされた諸国の民よりも更に悪い事を行った」(列王二21:9)とされる時代です。

 エルサレムがバビロニアによって陥落した年(BC586)まで預言活動を続けたエレミヤは祖国に臨む神の裁きを宣告せねばならず、「涙の預言者」(8:23ほか)とも呼ばれます。偽りの預言者たちの言葉を求める悪い時代にあって涙ながらに神の言葉を語ったので、エレミヤは権力者たちから厳しい扱いを受けました。
 故郷の人々からも殺されそうになり(11:21、ルカ4:29)、家族から反対され(12:6、マタイ12:46)、訴えようとする者たちは彼に対して陰謀を企てました(18:18、20;10、マタイ12:14)。だれからも呪われ(15:10)、あざ笑われた(15:10、20:7、ルカ23:37)ことに至るまで、エレミヤの身に負わされた苦難はまさにキリストの受難そのものと言えるでしょう。

 生身の人間ですから苦難にあって平気なはずはないのです。預言者として神から召されたことを嘆いては(15:15-17、20:8-9)、生まれたことを呪うこともありました(20:14-18)。
 キリストも神の独り子でありながら神と等しい者であることを捨てて人の世に生まれましたから、エレミヤと同じように肉体を持って苦しまれました。遣わされた預言者たちの痛み苦しみを自ら味わってくださり、ひとり山に登って祈られては(マタイ14:23)弟子たちの前でも嘆き苦しまれたのです(ルカ22:42)。

 民を救うために漁師を遣わすこと(16:16、マタイ4:19)、神殿が乱され強盗の巣とされていることへの憤り(7:11、ルカ19:46)も、エレミヤを通して語られたことです。そして「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と誓われた「正しい若枝」が十字架に架かり、私たちの救い主となってくださったのです。
 飼い主のいない羊のように弱り果てている群衆を見て憐れまれた主イエスは、正義と恵みの業を行う牧者です。罪人たちから「主は我が救い」と呼ばれることを恥とせず、かつての預言者と同じく苦しみを受けて「律法と預言者の書」の言葉を成就されました。


<結び>
 「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』」(マタイ24:44)

 深い悲しみと痛みを預言者と共に味わわれた神が人の子としてお生まれになり、肉体を伴って私たちと同じ弱さを負ってくださいました。牧者たちに滅ぼし散らされた羊を集め、飼い主のいない羊たちを憐れんでくださる救い主が世に来られたのです。
 私たちが罪に対して死んで義によって生きるため、この方が自分から十字架の上で私たちの罪を担ってくださいました。死んで葬られましたが、立ち枯れた木の根元から生えい出る若枝のようにキリストは私たちを生かすために復活されたのです。

 「主は我らの救い」と呼ばれる方はユダとイスラエルに救いと安らぎを賜るばかりでなく、信じるすべての人を牧する牧者です。この方を信じれば魂に安らぎを得られます。
 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(ペトロ一2:25)

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