FC2ブログ

「天から遣わされた方」ヨハネによる福音書7章25-31節

2023年12月3日
牧師 武石晃正

 アドヴェント(待降節)に入りました。教会学校では先週の日曜日にアドヴェントカレンダーを子どもたちに差し上げましたので、12月1日から日めくりを楽しんでいることでしょう。
 幼いうちはクリスマスの意味がよく分からなくとも「イエス様のお誕生日」として主の名を喜び祝う心が育まれます。あるいはクリスマスは知っていてもアドヴェントは馴染みがないという方でも、待降節つまり主キリストの現れを待ち望む備えとして心に留めていただければ幸いです。

 本日はヨハネによる福音書から朗読いたしました。アドヴェント第1主日にあたり「天から遣わされた方」と題して思いめぐらせて参りましょう。


PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.イエスとはどなたであるか
 聖書ではイエス・キリストが世にお生まれになる前の出来事を旧約に収めており、かつてのユダヤでは「律法と預言者の書」と呼ばれていました。イエス様の育ての親であるヨセフは「正しい人」(マタイ1:19)つまり「律法と預言者の書」の教えに従っていたことが知られています。
 ヨセフについて「過越祭には毎年エルサレムへ旅をした」(ルカ2:41)と書かれておりまして、その家で育ったイエス様もしきたりを守っておられます。律法には過越祭だけでなく「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない」(申命16:16)と定められておりますので、イエス様は仮庵祭にもエルサレムへと上られたことがヨハネによる福音書の7章前半に記されています(7:10)。

 そこではユダヤ人たちが「あの男はどこにいるのか」(11)と付け狙っておりましたが、イエス様は律法の定めを守っているのですから命を狙われるような筋合いなどないのです。ところがガリラヤでも既にある人たちはイエス様を殺そうと企んでおり、故郷ナザレでは人々が山の上から突き落とそうとした事件もありました(ルカ4:19)。
 このような出来事があったにもかかわらず、「イエスの兄弟たち」(ヨハネ7:2)がユダヤに上るようにと焚きつけたのは兄が早く捕らえられることを願ったことなのでしょうか。いずれであってもイエス様はご自身で定めたとおり、数多の敵意の中をエルサレムへと上られたのでした。

 ガリラヤ地方の人々はナザレ人イエスを通して行われる多くの奇跡を見聞きしましたが、他方でエルサレムの人たちに聞こえたのは巡礼者たちによる噂話程度でしょう。ですから神殿の境内で教えているイエスの姿を目の当たりにしたエルサレムの人たちが「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか」と驚いたという次第です(25)。
 その命が狙われていたはずなのに殺されるどころか捕えられてもいないので、議員たちがイエスをメシアだと認めて逮捕を取りやめたのではないかとの憶測が飛び交うことになりました(26)。ユダヤの指導者たちは直接には手を下せずにおりましたし、群衆もまた噂を聞いただけで実際にイエスを見ても本質に至ることを得なかったことになります。

 「わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている」(27)と言い当てることができたのは、恐らくイエス様の語り口調にガリラヤの強い訛りがあったからでしょう。この人たちは本当の意味での出身地、イエス様がダビデの町ベツレヘムで生まれたことを知っていたならば、素直にメシアであると信じることができたでしょうか。
 特に「律法と預言者の書」をはじめとする聖書について思い違いをしていることと、それゆえにキリストを正しく受け入れられないことを使徒パウロは不信仰としています。主イエスもまたこのような人々に対して「あなたたちはその方を知らない」(28)と彼らの不信仰を指摘されました。

 人々は自分たちが神を知らないと指摘されて憤慨し、イエス様に害を加えるため捕らえようとしました(30)。間違いを認めない者は正しいことを語られても聞く耳を持たず、事実を捻じ曲げようとするものです。
 ところで、群衆の中にもイエスを信じる者が大勢いたとも記されています(31)。それでも主はここで多くを説かず、「その方がわたしをお遣わしになった」と天の父を示すに留めました。

 しばしば「神様がいるというなら見せてみろ、見せてくれたら信じてやろう」という方にお目にかかったことがございます。ところが実際にキリストと直接にお会いできた人たちでさえそのことを受け入れることができなかったということですから、先に信仰があってこそ主イエスを天から遣わされた救い主であると受け入れることができるのです。
 

2.天から遣わされた方の証し
 福音書を読んでおりますとイエス様に対して理解を示そうとせずに悪意を向けてくるユダヤの指導者たちの姿がしばしば目に留まります。本日の箇所でも人々がイエス様を捕えようとした様子が記されていました(30)。
 改めて考えてみますと、新約まで揃った聖書から読み聞きしている私たちには信じると信じないとに関わらずナザレ人イエスがメシアであると明らかにされています。ところが福音書に登場する人々には旧約までしか明かされていないので、自分たちで読み解きながら目の前にいるナザレ人イエスについて解釈する必要がありました。

 とはいえ、新約の福音書からイエス・キリストを伝えてもにわかに信じる人が稀であることは皆様もご承知のとおりです。このことを考えれば、「律法と預言者の書」しかなかった時代の人たちが目の前の人物を「天から遣わされた方」と認めることがどれほど難しいことかお分かりでしょうか。
 ところで、マタイによる福音書から始まる新約の冒頭には「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)と記されています。系図は英語でfamily tree、地面に根を張って高くそびえる樹木になぞらえられます。
ローマの信徒への手紙11章を開くと、オリーブの木にたとえてパウロは説いています。ユダヤ人が不信仰のゆえに折り取られ、かわりに異邦人の教会が信仰によって恵みの根に接ぎ木されたということです。

 たとえ福音書に記されているユダヤの人々がキリストをねたみ殺そうと企んだとしても、それは神様とイスラエルとの契約において扱われることなのです。先の契約の外にある異邦人がとやかく口を挟んでよい領域ではありませんから、パウロが私たち異邦人に対して「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」と戒めています。
 天地創造の初めから人間が神様に背いたことも、人が心に思うことは幼いときから悪いということも何もかも承知されている神が天におられます。背きも悪も知っているのに慈しみと恵みによって救いの手段を定めてくださったのですから、たとえ不信仰なイスラエルであっても立ち帰るなら神である主が救ってくださるのです。

 今は福音があらゆる民族に伝えられるために主はオリーブの木から「自然に生えた枝」(21)をわきに置かれました。不信仰のゆえではありましたが元からこのオリーブの木に付いていた枝を神ご自身が所有しておられ、後にたやすく元の木に接ぎ木されるのです(23)。
 自然に生えた枝すなわちユダヤ人の回復が将来において確実であるからこそ、異邦人も信仰によって立っていられるのです。「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(22)と言われています。

 さて福音書に戻りますと、「群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて」(ヨハネ7:31)とあるように、ユダヤの人たちの中にも信仰のある人たちがおりました。この人たちが後に主の十字架を目の前に信仰を保てたかは明らかではありませんが、少なくとも聖書を通して私たちはナザレ人イエスが天から遣わされた方であると信じることができるのです。


<結び>
 「わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」(ヨハネ7:28-29)

 かつて預言者たちを通して告げられたとおり、おとめマリヤより救い主がお生まれになりました。聖霊によって宿られた方は、世に遣わされた救い主メシアとしてダビデの町ベツレヘムで生まれたのです。
 天から遣わされた方がおられるので、この方を信じる者は天の御国につながれます。既に私たちには新約の言葉によってイエス・キリストが明らかにされているので、ただこの方だけを信じるなら天からの救いを受けることができるのです。

 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)

コンテンツ

お知らせ