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「語られた神の言葉」ヨハネによる福音書5章31-47節

2023年12月10日
牧師 武石晃正

 昨日はこの礼拝堂にてみふみ認定こども園の親子クリスマス礼拝が行われました。クラスごとの入れ替わりではありましたが、コロナ禍による制限が解かれたことで多くの保護者の方々が御堂を訪れることができました。
 子どもたちは預言者イザヤの書から暗唱し、演奏や歌唱でキリストのお生まれを祝いました。幼いながらに口ずさんだ御言葉と賛美の歌詞が心に残り、成長する中で福音の種が芽生え花開くことを願うところです。

 さて本日の朗読箇所はヨハネによる福音書を開きました。この箇所を基に「語られた神の言葉」と題して進めて参りましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.なぜ救い主が必要か
 降誕劇では台詞や歌詞の中で何度も「救い主」「イエス様」と謳われます。イエス様が誕生されたのでクリスマスを祝うのですが、救い主として迎えるのとどこかの知らない赤ちゃんが生まれたお誕生日を祝うのとでは大違いです。
 生まれた方にとっては神の御子でありながら被造物に成り下がったのですから、手放しに喜べることではないはずです。けれども天使が「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と主の降誕を喜びとして告げたので、私たち人間は救いの道が開かれたことを「おめでとう」と祝うことができるのです。

 ではなぜ私たちに救いが必要なのでしょう、あるいは救いとは一体何でしょう。福音書には御子イエスを信じることに関して「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)、また「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」(同3:16)と書かれていますから、まさしくこれがキリストによる救いです。
 「永遠の命を得る」と言われているのですから、得なければ持っていないことになります。永遠ではない命によって生かされているので誰でも必ず死ぬのであり、翻っては死ぬということが神への背きと罪についての動かぬ証拠となるのです。

 そして誰も神様と面識はないのですから(27)、謝りに行くことも償うこともできないわけです。どれほど科学や技術が発展しても神のもとへ行くことはできませんし(創世3:24)、医学は死をいくらか先延ばしにすることしかできないのです。
 私たち人間は天地創造の神様に背を向けて離れてしまったので、死と滅びに定められています。イエス・キリストを信じた者であっても必ず死ぬのですから、死ぬことによってすべての人が罪の中に生まれ罪の中に生きたという事実を露(あらわ)にされます。

 キリストを信じても信じなくても必ず死ぬのであれば、私たちに救いはないのでしょうか。否、人間にはただ一度死ぬこととその後に裁きを受けることが定まっているのですが(ヘブライ9:27)、キリストと共に死んだ者はキリストと共に生きることにもなるのです(ローマ6:8)。
 共に生き、共に死に、共によみがえらせてくださるために子なる神が救い主として世にお生まれになりました。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたので」(ヨハネ1:18)、神によって創られたすべての人はこの方の救いを必要とするのです。

 ヨハネによる福音書ではユダヤの人たちが永遠の命を得ようとして聖書を研究したことが記されています (5:39)。聖書を研究するだけでは救いを得られないので、主ご自身が救い主として来てくださったのです。


2.イエス・キリストが救い主である証拠
 天地創造の唯一なる神様に人間が背いたこと、死ななければならない存在なので朽ちない命を必要とすることまで分かったとしましょう。ではナザレ人イエスが救い主であることは何をもって知ることができるでしょうか。
 目の前に現れた人物が「わたしは救い主メシアである」と言い出したところで、それを真に受ける人は滅多にいないのではないかと思われます。福音書には信じようとしなかった人たちが数多く登場しますが、イエス様ご自身が何をもって証拠すなわち証しとしておられるのかを朗読の箇所から取り上げましょう。

 「わたしは、人間による証しは受けない」(34)とおっしゃるところは、地上におけるいかなる権威にも拠らないことを意味しています。バプテスマのヨハネが洗礼を授けるにあたり「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)と言ったのですから、彼を無視できなかったファリサイ派やサドカイ派の人々に対しても十分に有効な証言だったはずです。
 ただし人々がヨハネを受け入れたのはしばらくの間の喜びと楽しみのためでした。もしバプテスマのヨハネの言葉をもって証しとなすならば、彼を評価した人々の権威の下に救い主が置かれてしまうでしょう。

 ヨハネについて「彼は真理について証しをした」(33)とその働きを評しつつも、主は「人間による証しは受けない」(34)と断りを入れます。ではあのバプテスマのヨハネよりも優れた証しがあるのか、と聞いていた人々の顔に書いてあったようです。
 そこでイエス様は3つのことを主なる神から遣わされている証しであると示されました。一つは「わたしが行っている業そのもの」(36)であり、病人が癒され死人がよみがえらされることは実に旧約の預言者たちと同じく神から遣わされた者のしるしでした。

 次いで「わたしをお遣わしになった父」(37)を挙げられます。地にある者たちが聞くと聞かざるとに関わらず天の父なる神が御子について証言されたのであり、ヨハネと弟子たちだけが「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17、17:5)という声を聞きました。
 これら2つの証しは現代の私たちには見聞きすることができないものですので、その代わり私たちは自分の心の内に父なる神のみことばをとどめるのです(38)。ゆえに3つ目が今も後も変わらない証しであり、「聖書はわたしについて証しをするものだ」(39)と主みずからが語られました。

 イエス様が地上におられた時の聖書は旧約しかありませんでしたが、ヨハネによる福音書が執筆される頃には既に新約の一部が使徒たちの間でも聖書と同等に扱われています (ペトロ二3:16)。従って私たちはここで聖書と言われているものを旧約ばかりでなく新約まで含めた「聖書」として受け取ってよいでしょう。
 ですから先の2つの証し「業そのもの」と「お遣わしになった父」についても、私たちは「聖書」の福音書から確証を得ています。更に私たちがキリストについての確信を深めるために、旧約もしっかりと心にとどめるのです。

 「モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか」(47)とのお言葉は反語ですから、旧約の最初の五書を信じなければキリストのお言葉を信じることもできないのだという意味です。キリストが主なる神であると信じるには、主なる神様がどのような方であるのかを知る必要があるからです。
 とは言え創世記から旧約の全てに目を通すことは難しいのであれば、せめて「モーセの書いたこと」とはっきり書かれている部分だけでも読んでみましょう。レビ記の中に「以上は、主がシナイ山においてモーセを通して、御自分とイスラエルの人々との間に定められた掟と法と律法である」(レビ26:46)とまとめられている箇所があります。

 これはレビ記26章でありまして、なんとそこには読むだけでも身震いするような懲らしめの数々が挙げられております。「わたしの言葉を聞かず、(中略) わたしの契約を破るならば、わたしは必ずあなたたちにこうする」(レビ26:14-16)と記された「わたし」について、イエス様は「モーセは、わたしについて書いている」(ヨハネ5:46)と言われたのです。
 「わたしの言葉」とはイエス様のお言葉、「わたしの契約」とはキリストによる契約につながります。福音の言葉を聞き、主イエス・キリストによる新しい契約を受けた者は神の裁きと懲らしめから救われるのです。
ナザレ人イエスが神から遣わされたメシアであることは「業そのもの」と「お遣わしになった父」、そして「聖書」をもって確かめられます。救いはイエス・キリストの恵みですので、この方を信じて受け取るなら誰にでも与えられます。


<結び>
 「だから、聖霊がこう言われるとおりです。『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。』」(ヘブライ3:8-9)

 モーセや預言者たちを通して語られた神の言葉は、彼らが遣わされた時代の人々にはにわかには受け入れがたいものでした。エジプトから救い出された民はモーセに対して、イスラエルの王たちは預言者たちに対して耳を貸さないどころかその命を奪おうとさえしました。
 イエス様が地上におられた時代にはユダヤの指導者たちが立ちはだかりました。主の復活の後に教会を通してキリストの福音が宣べ伝えられると偽教師たちが現れました。

 いつの時代であっても聖書の言葉を自分たちに都合よく用いる者が起こります。その人にとっての「信仰深さ」を維持するために、神の言葉を語る者が迫害を受けるのです。
 神の民と呼ばれる人々に対してバプテスマのヨハネが、そしてイエス・キリストが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼ばわりました(マタイ3:2、4:17)。モーセと預言者に続き、人として世に来られたキリストを通して語られた神の言葉を信じるなら、だれでも神の子とされ永遠の命を得るのです。

 「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。」(ヘブライ3:13)

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