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「主の道をまっすぐにせよ」ヨハネによる福音書1章19-28節

2023年12月17日
牧師 武石晃正

 12月も半ば、今年も残すところ2週間となりました。来週の日曜日は12月24日、降誕日の前夜を迎えるクリスマスイヴです。
 今年はクリスマスイヴの日が主日と重なっており、宇都宮上町教会ではクリスマス礼拝を24日の主日礼拝に行ないます。夕方にはクリスマスイヴの集いとして音楽会を催し、午前と午後に主のご降誕を祝い喜びましょう。

 教会暦の1年は降誕日から始まりアドヴェント(待降節)で終わります。教会の時代を表す聖霊降臨節の後にありますから、アドヴェントにおいては主が再び天から降りて来られるのをますます待ち望むところです。
 ホーリネス信仰である四重の福音においては4番目の再臨信仰を覚えます。本日は朗読しましたヨハネによる福音書を中心に「主の道をまっすぐにせよ」と題して、「主の再び来たりたもうを待ち望む」(日本基督教団信仰告白)備えをいたしましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.先駆者ヨハネ
 新約における福音書はイエス・キリストとその弟子たちの言行録ですが、救い主メシアの登場に先立って洗礼者ヨハネについて述べられています。特にルカによる福音書では主の母マリアへの受胎告知に先立って、このヨハネの出生に関わる記事が記されます。
 ユダヤの祭司ザカリアとその妻エリサベトは子どもを授かるには年を経てしまっておりました。ところが神殿の最奥の間でひとり祭儀を行っていたザカリアに天使ガブリエルが現れ、エリサベトとの間に男の子が生まれると御告げをしたのです。

 天使のお告げの通りエリサベトは身ごもったのですが、その6か月後にガブリエルはガリラヤ地方のナザレという町に住むおとめマリアにも現れました。そして「おめでとう、恵まれた方。(中略) あなたは身ごもって男の子を産む」(ルカ1:28,31)と告げました。
 未婚であり婚約中の身であるマリアには子どもを宿すようなことは身に覚えがありませんので、そんなことはあり得ないと断りました(同34)。そこで天使はあり得ないことの実例として、マリアの親類であるエリサベトが既に6か月であることを示しました(36)。

 そうこうして生まれたのが洗礼者ヨハネです。お告げを受けたのは祭司ザカリア、産んだのはエリサベトですが、ヨハネがエリサベトの胎を開いたことによってマリアを通してキリストのお生まれになる道が備えられたと言えましょう。
 ヨハネの幼少期や成長ぶりについて聖書は何も触れておらず、4つの福音書は揃って彼がユダヤの荒れ野に身を置いていたことを記しています。このヨハネがヨルダン川で人々に宣教とバプテスマを授けていたところへ、本日の箇所では「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして」(19)来たということです。

 遣わされた人たちは神殿に仕える祭司やレビ人たちのほか、民の指導者的立場にあるファリサイ派の人々もおりました(24)。別の箇所ではサドカイ派の人々も洗礼を受けるためにやって来たとありますから(マタイ3:7)、ヨハネの影響力は相当に大きなものでした。
 ですから祭司たちやファリサイ派の人々は彼らの権威を超える存在、救い主メシアであるのではないのかと「あなたは、どなたですか」と確かめようとした次第です(21)。彼らの尋ねるところのエリヤとは裁きの日に遣わされる預言者であり(マラキ3:23)、「あの預言者」すなわち神の人モーセのような預言者(申命18:15)も現れると信じられていました。

 「それではいったい(中略) あなたは自分を何だと言うのですか」(22)と迫る人々に対して、ヨハネは預言者イザヤの言葉を用いて答えています(23)。その中でも「主のために、荒れ野に道を備え(中略)荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ40:3)と呼びかける声であるとヨハネは自身を示しました。
 彼は「後から来られる方」(27)の前では道を備える者でもなく、履物のひもを解く僕でさえなく声にすぎないというのです。その後もヨハネはヨルダン川沿いの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と叫び続け、主イエスが公に現れるまで人々に悔い改めを説きました。


2.主の道をまっすぐにせよ
 エルサレムから遣わされた人々はヨハネに対し、メシアでも預言者でもないのに洗礼を授けている権威について問いました(25)。ヨハネは「わたしの後から来られる方」(26)として、水で洗礼を授けている自身よりも優れた方がメシアであることを示します。
 「道をまっすぐにせよ」とは「道を整え」「広い道を通せ」というお触れであり、大国の軍隊が遠征するにあたって道路を整備させる様子です。攻められる側からすれば、遠くから「道を通せ」と先駆けの者の声が聞こえたならば、迎え撃つことができるのか敵がまだ遠方にいる間に和を求めるべきかが問われます。

 「主のために」(イザヤ40:3)道が整えられるので、その道の上を迫ってくるのは「天の国」です。従って被造物にすぎない私たちには到底勝ち目はないのですから、「主の道をまっすぐにせよ」と呼ばわる声が聞こえているうちに悔い改めて神に赦しを乞うのです。
 詩編には「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう」(詩編130:3)と書いてあります。創造主である神様に対する背きや過ちは見逃されることはありませんから、私たちは誰も自分のほうから神様に近づくことはできないのです。

 ところが詩編は同じ神様に向かって「しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。」(同4)と告白しています。主なる神様は罪や過ちを見逃すことはなくとも、悔い改めて救いを求める者には赦しを与えすべての罪から贖ってくださるのです。
 そこでバプテスマのヨハネは天の御国の到来を告げる「声」でありながら、待ち受ける民に対して悔い改めを説きました。悔い改めた者には罪を贖われた者のしるしとして水による洗礼が授けられました。

 洗礼と訳されている語はふりがなが付されているように、もともとはバプテスマという用語が用いられています。バプテスマの語源とされる動詞が「水の中に浸す」という意味であり、ヨハネの以前にもユダヤ教の一部ではきよめのために身体を水に浸すという宗教的行為が行われておりました。
 清めのために水に浸すという規定はモーセの律法の中にあり、生き物の死体によって汚れた器や衣類などについて「それは水に浸しておかねばならない。夕方まで汚れるが、それ以後は清い」(レビ11:32)と定められています。これに倣って行われたのがバプテスマであり、器にせよ人にせよ浸されていた水の中から上げられることによってきよめが宣言されます。

 「わたしは水で洗礼を授けるが」(26)と答えたヨハネの後から「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3:11)方が来られます。主が来られるに際して「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(同10)のです。
 このように「主の道をまっすぐにせよ」とのヨハネの叫びは聞く者たちへの命令ではなく、差し迫った神の御怒りについての警告です。主はヨハネを通して「悔い改めにふさわしい実を結べ」(同8)と命じ、洗礼を受けた者たちにその実を求めておられます。

 意外なことにメシアであるはずのナザレ人イエスが世に現れても一向に神の御怒りが下らないので、ヨハネは弟子たちを遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか」(ルカ7:19)と尋ねました。主イエスはヨハネと同じく「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説いただけでなく、すべての人が悔い改めて救われることを今も待っておられます。
 「赦しはあなたのもとにあり」「すべての罪から贖ってくださる」(詩編130:4,8)との約束は主イエスの十字架によって果たされました。「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶ声とともに主が再び来られる前に、イエス・キリストによる救いとバプテスマとを受けましょう。


<結び>
 「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」(コリント一4:5)

 神が御子を世に遣わされたのは世が救われるためであり (ヨハネ3:17)、この方が「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(申命5:7)と命じられた三位一体なる唯一の神です。救い主であるキリストが天に昇られる前に「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と水のバプテスマを教会に委ねられました。
 世の中はキリスト抜きにクリスマスの賑わいに染まっています。「主の道をまっすぐにせよ」と呼ばわる声が聞こえたならば間もなく主が来られて、生ける者と死ねる者とをお裁きになります。

 教会は「悔い改めよ。天の国は近づいた」とヨハネのごとく悔い改めを説き、悔い改めた者にはキリストと共に死にキリストと共に復活するしるしとしてバプテスマを授けます。
 いよいよ来週は主のご降誕を祝うクリスマスです。今年のアドヴェント最後の週に臨み、再び来られる主を待ち望む備えをいたしましょう。

 「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」(黙示22:20-21)

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