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「あなたがたは世の光である」マタイによる福音書5章13-16節

2024年1月1日
牧師 武石晃正

 新年おめでとうございます。昨日の主日礼拝に続き、2024年最初の日に敬愛する皆様と共に教会の頭であるキリストの御前へ出でることができることを幸いに覚えます。
 キリストを信じキリストに仕える者としては初日の出と呼ばれる暁光を拝むことこそいたしませんが、新しい年を迎えるにあたり新鮮さを感じることは自然なことでしょう。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(エフェソ5:14)と御言葉にありますように、この1年もキリストの光に照らされる恵みを願い望むところです。

 2024年の元旦にあたり、マタイによる福音書を開きました。「あなたがたは世の光である」と題して主の御言葉をいただきましょう。

PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.地の塩と世の光
 「あなたがたは地の塩である」(13)「あなたがたは世の光である」(14)との御言葉は、元旦から主の御前に出て礼拝を献げようという皆様にとっては慣れ親しんできた箇所の一つでしょう。何度も聞いてきたので今さら説かれなくとも十分に知っているよと思われる方も、新年ですので初心に返って思いめぐらせていただければ幸いです。
 ここで「塩」と呼ばれているものは私たちが普段「塩」と呼んでいる調味料とは様子が異なりまして、食塩を含んでいる岩石のようなものです。塩味の正体であるところのものが「塩気」と呼ばれておりますので、こちらがいわゆる食塩に相当します。

 塩漬けという保存のための加工もありますが、ここで言われている塩は「塩味」をつけるために用いられるものです。海水の食塩濃度がたった3%でも非常に塩辛いのですから、1%を切るぐらいでちょうどよい塩味と言えましょう。
 割合にしてほんのわずかでも相当に利くのが塩気です。「光」についても同様に、何もかもが光を放っていたらまぶしくて大変です。

 「光」と呼ばれているものも電磁波としての光ではなく、いわゆる「明かり」と呼ばれる光を発するもののことです。「ともし火」の炎が部屋をもっと明るくしようと火を点けて回ったら火事になってしまいますので、燭台の上に置かれて照らしているのが役割です。
 山上の説教においてイエス様は「世の光」について「山の上にある町は、隠れることができない」とたとえています。これもまたすべての町を山の上に移せばよいという話ではなく、「あなたがた」と呼ばれる者たちが隠されたままにはされないことを意味します。

 「ともし火」(15)の所有者は誰でしょうか、私自身がともし火であっても所有しているのはキリストです。キリストが「あなたがた」を燭台の上に置かれます。
 ただし「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(16)とも命じられています。自らの意思を持ち、望んで輝くことを主は喜んでおられます。

 わずかな量あるいは小さい物でも明らかになるので、キリストの弟子たちの存在はおのずと山の上にある町のようです。見るともなく人々に見られているはずですが、もし見られていなければ塩気を失った塩あるいは升の下に置かれたともし火のようです。
 人目に付くと申しますと、皆様から見て正面の講壇に立っておりますと礼拝堂のどこからでも説教者の姿が見えるでしょう。実はこの者は子どもの頃から何かと目立ち、特に名前が姓も名も珍しいのですぐに覚えられては見つけられてしまいました。

 友だちと一緒に何かいたずらをする時にも、他の子はともかく誰かが「テル」と名前を呼ぶなりら近所の大人に知られてしまいます。幼いうちはその程度ですが大きくなってからは新聞に名前が載るようなこともしばしばありまして、小さい活字なのに必ずと言ってよいほど誰かが「武石」や「晃正」の文字を見つけてくるのです。
 もちろん新聞に載っていたのは警察のお世話になるような悪事ではありませんで、稀であればこそ目立つことの引き合いです。キリストの名で呼ばれる者たち、殊に真のキリスト者はこの世において稀であり、一挙手一投足が良い意味でもそうでなくとも周りに影響を及ぼすのです。

 塩気を保っていることが「塩」の価値であり、燭台に置かれてともし火は「光」として役割を果たします。あるべきところに置かれてはじめて「地の塩」また「世の光」として働くように、キリストの体である教会と結ばれている一人一人がこの世に置かれています。
 

2.光の子として歩む
 マタイによる福音書において「山上の説教」はイエス様が弟子たちへ、直接にはユダヤ人である弟子たちに向けて語られた教えです。後に異邦人の世界へキリストの福音が広まる中で、他の教えとともに山上の説教も主が「あなたがたに命じておいたこと」(マタイ28:20)として伝えられました。
 異邦人のための使徒(ローマ11:13)とされた使徒パウロは教会に宛てて次のように説いています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5:8)

 パウロが伝道した町の一つであるエフェソは小アジア半島に西岸に位置するローマ帝国の交易港の町で、巨大な劇場を備えるアルテミス神殿がありました(使徒19:27)。ギリシアの女神を祀る人々は交易による繁栄を誇っておりましたが、彼らがいかに富と文化とを誇ろうとも天地創造の唯一の神の前には暗闇も同然です。
 主キリストの十字架による贖いと復活を信じ、回心した人々がエフェソの町にも多く起こされるようになりました。異邦人の中からキリストに結ばれて神の民とされた者たちに向けて、パウロは「以前には暗闇でした」と事実を忘れることのないように導きます。

 もともと光ではなかったものが神の憐れみにより、主キリストに結ばれたことによって光となったに過ぎないのです。これはイエス様が弟子たちに「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)と説かれたことに通じます。
 主が語られたとおり、つながっていなければ光となることさえできないような者なのです。ですからパウロもまた光となった者たちに対し、受けた恵みに従って自らの意思で「歩みなさい」と勧めています。
以前には暗闇だったと言われておりますように、エフェソの町には偶像が満ちあふれておりました。新しく生まれたキリスト者たちは光の子とされてもなお暗闇と誘惑に取り囲まれいたのです。

 同様にどこの国であってもいつの時代においても、キリスト者の周りにはこの世の価値観やこの世の評価など福音の真理に反するものが溢れています。「光の子として歩みなさい」と命じられなければ元の暗闇に戻ってしまうばかりでなく、時に教会の中へ古い性質やこの世の価値観などの「暗闇」を持ちこんでしまうということさえあり得るのです。
 果たして闇であるのか光であるのか、ヨハネによる福音書には「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」(ヨハネ3:20)と言及されています。縁の下や側溝などの暗がりに生きる虫たちがそうであるように、暗闇である者は日の光が照るや否や明るみに出されることを恐れます。

 翻って「真理を行う者は光の方に来る」(同3:21)のです。以前には暗闇でしたが、今はキリストに結ばれて光の子とされましたから光の子とされた人々と共に歩みます。
 ではどのようにすれば暗闇の世にあって光の子として歩むことができるのでしょうか。旧約の詩編の中で「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)と歌われるように、神の言葉に照らされて歩むのです。

 そのためにも教会は主の日毎に公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行います。一人ひとりもまた聖書の言葉と聖礼典に与り、主の体の肢(えだ)として仕えます。
 イエス・キリストを信じた者は既に「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)「主に結ばれて、光となっています」(エフェソ5:8)とのお墨付きをいただいています。「その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハネ3:21)私たちは光の子として歩むのです。


<結び>
 「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(2コリント4:6)

 かつて江野町にあった教会を主は山の上にある町へ移されました。長岡の峠を別とすれば、その山の上の町にあって一番高いところに宇都宮上町教会の礼拝堂が建っています。
 名実ともに「上町」山の上にある町、「あなたがたは世の光である」と主がおっしゃったのは実にこの教会のことであると明らかになるよう一年の計を献じます。主が召してくださり、教会によってキリストと結ばれた一人ひとりもまた「世の光」として輝きましょう。

 「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5:14)

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