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「この方こそ神の子」ヨハネによる福音書1章29-34節

2024年1月7日
牧師 武石晃正

 2024年最初の主日礼拝でございます。昨年は元日が日曜日でしたので主日礼拝において元旦礼拝を献げましたが、今年は元旦礼拝を献げた上で改めて主日を迎えております。
 教会暦ではクリスマスから1年が始まり、13日目の1月6日が公現日であります。公現日はプロテスタント教会を含む西方教会ではイエス様のご降誕を異邦人である東方の学者たちが礼拝したことの記念日とされています。

 東方教会では古くからこの日をキリストがヨルダン川で洗礼を受けられた日を記念し神現祭が祝われていました。洗礼者ヨハネによる洗礼において、父子聖霊なる三位一体の神が世に示され、罪のない方がすべての罪人の手本として悔い改めの洗礼を受けられたことを覚えます。
 一連の降誕記事の後に主イエスが公に現れたのがヨルダン川での洗礼であり、ここから救い主としての公生涯が始まります。年の初めの主日礼拝に際しヨハネによる福音書を開き、「この方こそ神の子」と題して主と共に歩む備えをいたしましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.世の罪を取り除く神の小羊
 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書はそれぞれ独自の記事を含みつつ、いくつかの事柄について共に証言しています。降誕記事の羊飼いはルカによる福音書のみ、東方の学者たちはマタイによる福音書のみに登場しますが、洗礼者ヨハネは4つの福音書のいずれにも記されています。
 特にマタイ、マルコ、ルカの3つは共観福音書と呼ばれており相互の関連が深いのですが、これらが記された年代よりかなり後になってヨハネによる福音書が著されました。ナザレ人イエスを受け入れない立場の者たちでさえ洗礼者ヨハネの存在を否定することはできなかったので、どの福音書も重要な証言として彼の証言を取り上げています。

 ファリサイ派やサドカイ派の人々も大勢ヨハネの洗礼を受けに来ました(マタイ3:7)。ユダヤの指導的立場の人たちでさえヨハネの教えを否定することができなかったのです。
 そのヨハネのところへイエスが来て洗礼を受けました。主がヨルダン川の水の中から上がられると神の霊が鳩のように降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と御父の声が聞こえました(マタイ3:13-17)。

 イエス様が洗礼を受けて何日後であるか定かではありませんが、ヨハネがファリサイ派の人々と議論を交わした翌日のことです(1)。表向きにはヨハネの門下となっていたナザレ人イエスが弟子の一人としてやって来ました。
 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とヨハネは人々へ指し示します。「悔い改めよ。天の国は近づいた」とのヨハネの言葉を聞いて洗礼を受けた人々にとって「世の罪を取り除く」ことは最も重要なことでした。

 悔い改めを告白してヨルダン川に沈められても犯した罪そのものがなくなるわけではありません。また律法には罪の償いと神へのなだめとして牛や羊を捧げることが教えられていますが、神殿の祭司でさえ贖いを必要としている罪人にすぎないのです(ヘブライ7:27)。
 洗礼を受けてもいけにえを捧げても人の行いでは罪を取り除くことはできないので、人の手によらない「神の小羊」が必要でした。預言者イザヤを通して「屠り場に引かれる小羊のよう」(イザヤ53:7)と示された主の僕、多くの人が正しい者とされるために罪を背負い過ちを担って死なれる方です。

 朗読した箇所が「その翌日」(29)と仕切られているところに意味を見いだすことできるでしょう。この日の前日にはエルサレムから遣わされた祭司たちやファリサイ派の人々がヨハネと議論を交わしました(19-28節)。
 疑う者たちや世の思い煩いとの間に一線を引いたところへ主イエスが来られたのです。聞く耳を持たない者たちにではなく悔い改めにふさわしい実を結ぼうとする者たちに対して、ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と救い主を指し示しました。

 
2.この方こそ神の子である
 「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる」(30)とヨハネはかねてよりイスラエルを救う方が来られることを予告していました。それ対して「わたしはこの方を知らなかった」(31)との告白は矛盾しているようにも感じられます。
 彼は自分の出生について母が語る折には、常に親戚のマリアの話も聞かされたことでしょう。「わたしの後から」と言われているとおり、確かにヨハネの母エリサベトより6か月ほど遅れてマリアは身ごもりました(ルカ1:36)。

 ですからヨハネがマリアから生まれたイエスについて全く知らなかったはずはないのです。むしろマリアについてエリサベトが「わたしの主のお母さま」(同43)と呼んでおり、聖霊が降って神の力に包まれて身ごもったこともヨハネは聞かされています。
 ではどうしてヨハネは「この方を知らなかった」などと言ったのでしょうか。彼自身もイスラエルの救い主メシアの到来を待ち望んでおり、マリアの子イエスがそれらしいということも知っていたのです。

 ヨルダン川で洗礼を受けるためにイエス様が来られた時には「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」(マタイ3:14)と一旦ヨハネは辞退するのです。この時までは人として優れた存在として親戚のイエスを知っていたに過ぎなかったのです。
 ユダヤの指導者たちでさえ洗礼を受けに来るほどのヨハネが「その履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1:27)と言えば、彼の後から現れる人物がどれほど優れているかを示すに余りあるでしょう。「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」(31)と言うようにエリヤの霊と力 (1:17)をもってイエスに洗礼を授けるならば、ヨハネの役割はまさにダビデに油を注いだサムエルのようです(1サムエル16:13)。

 ところがヨハネがヨルダン川に沈めた後イエスが水の中から上がられると、天が開けて神の霊が鳩のように降って来てはその上にとどまったのです。更には、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)と言う声が天から聞こえたのですから、とんでもないものを見てしまったとヨハネは驚いたことでしょう。
 実際に洗礼を授けるまでヨハネは親戚のイエスがまさか神の子であるとは知らなかったということです。マリアが聖霊によって身ごもったことも、羊飼いたちに天使が救い主メシアの誕生を告げたことも、親戚筋として他の誰よりもよく知っていたのですが、ヨハネでさえ神が人としてお生まれになったとは到底思いもよらなかったというのです。

 それぞれの親が天使からお告げを受けて生まれた者同士ですし、マリアのことは母から常々聞かされていました。羊飼いの末っ子が王様になったほどのこともありますから、大工の家に生まれた子が救い主メシアであることも神にとってできないことはないはずです。
 それでも神の子その方であったとは知らなかった、30年来の親戚であるけれどこんなに身近に主がおられたのかという驚きと喜びがヨハネの全身を駆け巡ったことでしょう。天から降った神の霊がとどまるのを見て、ヨハネは感極まって「この方こそ神の子である」と証ししたのです(33-34)。

 あまりにもイエス様の存在を身近に感じてしまっているので、神ご自身がわたしたちの間に宿られた(1:14)という衝撃的な事実に気がつきにくくなっていたのでしょう。かつてヨハネがそうであったように、毎年クリスマスを祝っている私たちはこの方こそ神の子であるという確信に至っているでしょうか。
 天の神ご自身が罪の世を救うために現れてくださったという感動を押さえきれず、ヨハネは自分の方へイエスが来られるのを見るなり「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と人々に知らせました。待ち望んでいた救い主が自分の知らないうちからずっと一緒に生きていてくださったと知った時、ヨハネはどれほど嬉しかったでしょうか。

 こうしてヨハネは「水で洗礼を授けに来た」(1:31)「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方」(同33)と神の子キリストを洗礼によって世に現しました。教会もまたヨハネが「悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けている」 (マタイ3:11)と説いたように、イエス・キリストの福音を宣べ伝えてバプテスマを執り行います。


<結び>
 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8)

 毎年クリスマスが近づきますと教会ではイエス・キリストのお生まれについて語られますから、長らく教会に結ばれている方は聖書を開かなくても降誕の出来事を思い浮かべることができるでしょう。こども園でも讃美歌や降誕劇において救い主がお生まれになったことを繰り返しほめ歌い、幼い子どもたちでもイエス様のお誕生日を祝います。
 キリストがお生まれになったということは多くの人々が知ってはいるのです。ところがキリストの降誕の事実を知っていることとこの方こそ神の子であると信じていることとは大違いなのです。

 クリスマスにはユダヤ人の王としてお生まれになった救い主の誕生が告げ知らされます。公現日にはこの方こそ神の子であり、「世の罪を取り除く神の小羊」として私を罪から救い出すために来てくださったことを確信します。
 罪のない方が悔い改めに導く洗礼を受けたので、キリストを信じる者もまた洗礼を受けることで聖霊を受けて神の子とされるのです。そしてヨハネと同じく水による洗礼を委ねられている教会は洗礼を授けることによって、キリストを信じて救われた者を「この者は神の子とされた」と世に現わします。

 「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1:34)

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