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「イエスに従った人」ヨハネによる福音書1章35-51節

2024年1月14日
牧師 武石晃正

 年初の挨拶より入学式や入社式など年度初めに引用されることが多いでしょうか、世の中ではしばしば「人生は出会いで決まる」と申します。出会いと別れが対であるとするならば、映画や歌謡に欠かせないことからも人間の営みそのものであるようです
 「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」(箴言27:17)とは聖書の言葉です。実に私たち人間は誰と出会えるか、そして唯一まことの神様に出会えるかどうかによって生き方に大きな違いが生じます。

 今週も引き続きヨハネによる福音書を開き、イエス・キリストと出会った人たちについて読みました。この箇所を中心に「イエスに従った人」と題して進めて参りましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.イエスの最初の弟子たち
 ヨハネによる福音書は他の3つの福音書と異なり、冒頭でバプテスマのヨハネについてより多くのことを扱っています。洗礼を授けることでナザレ人イエスについて「この方こそ神の子である」(1:34)と明らかにしただけでなく、ヨハネはこの方をしばらく自分の門下におくことで「主の道をまっすぐにせよ」(23)との役目を果たしました。
 しばらくの間イエス様がヨハネの一門として働きをなさっていたことは3章22節以下の記事から示されるところです。朗読いたしました箇所は主が洗礼を受けられた後のとある日の出来事として記されています(35)。

 この時代、ヨハネから洗礼を受けた者はユダヤとガリラヤに大勢おりました。ある者たちはエルサレムへの巡礼などでヨルダン川沿いの街道を行き来する途中、ヨハネのもとに立ち寄って洗礼を受けたことでしょう。
 洗礼を受けるだけ受けて自分の町へと帰って行く者もあれば、「二人の弟子」(29)のようにヨハネともに荒れ野に身を置いた者たちもおりました。マタイによる福音書などによればイエス様は洗礼を受けられた後に荒れ野で40日間を過ごされていますので(マタイ4:1)、人々はヨハネの弟子として訓練を受けているように思ったことでしょう。

 頃合いよく通りかかられたのでヨハネは「歩いておられるイエスを見つめて」、弟子たちに「見よ、神の小羊だ」と指し示しました(36)。この2人もヨハネから常々「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(33)と説かれておりましたから、「それを聞いて、イエスに従った」(37)とただちに何をすべきか理解しました。
 2人の弟子の片方は「シモン・ペトロの兄弟アンデレ」(40)と明かされておりますが、もう一人はどなたでしょうか。弟子たちを2人1組で遣わすのは当時のラビたちの訓練方法であり、このヨハネばかりでなくイエス様においても常套でした(マルコ6:7、ルカ10:1)。

 「来なさい。そうすれば分かる」(39)と招かれるままヨハネの弟子たちはイエスに従ったのです。彼らは弟子でありながらヨハネのもとを離れたわけですから、洗礼者ヨハネはこの日からナザレ人イエスに暖簾を分けたことになるでしょう。
 いよいよここでシモン・ペトロが登場します。イエス様が2人の弟子をヨハネから引き継いだのが「午後四時ごろのことである」(39)と言われていますので、アンデレは居ても立っても居られずに自分の兄弟をイエス様のところへと連れてきました。

 「わたしたちはメシア(中略)に出会った」(41)との一言でシモンが理解できた様子から、彼もまたヨハネの弟子として教えと訓練とを受けていたことが分かります。この時シモン・ペトロも「ヨルダン川の向こう側、ベタニア」(28)の付近にいたわけですので、ガリラヤ湖のほとりで声をかけられる以前よりヨハネの門下にあるイエスの弟子でありました。
 公生涯と知られるイエス様独自のお働きが始まる以前に、洗礼者ヨハネが弟子たちをイエス様に従うよう遣わしました。先に従った2人はシモンを招くべく遣わされたわけですが、事の順序をたどってみますと実はイエス様のほうから弟子たちを迎えるためにヨハネの近くへ立ち寄られたのでした(35)。
 

2.イエスに従った人々
 その翌日(43)、イエス様はガリラヤへと向かわれます。マタイによる福音書では荒れ野で試みに遭われた後にヨハネが捕らえられたと聞いてガリラヤに退かれたとことが記されております(マタイ4:12)。
 ところがこの時点ではまだイエス様はヨハネの門下で言わば師範代のような立場にあり、ヨハネによる福音書の中では3章までヨルダン川で洗礼を授ける一派に身を置いておられます。従ってここでガリラヤへ行こうとされたのは宣教活動を開始するためではなく、2章の冒頭に記されているように婚礼に招かれているカナへ向かうためでした。

 さてガリラヤへ向かう途上でフィリポに出会ったということで、彼もまた後に十二使徒の一人として任命される人物です。イエス様がフィリポに出会ったのがどこであるのか明かされていませんが、わざわざ「ベトサイダの出身」(44)と記されていることからガリラヤまで戻っておられないことが伺えます。
 なお「アンデレとペトロの町」は他の福音書ではカファルナウムであると知られており(マタイ4:13,18)、ベトサイダはそこから東へ数kmの隣町です。ベトサイダとはアラム語で「漁師の家」を意味ですので、フィリポと2人の漁師との間柄を言い含めたのでしょう。

 ナタナエルという弟子の名前はヨハネによる福音書にのみ見られますが、十二使徒のうちバルトロマイであろうと言われています。彼はガリラヤのカナ出身でありますから(21:2)、イエス様はそのことも知った上で彼を見いだされたのでしょう。
 フィリポに出会うやイエス様が「わたしに従いなさい」と突然に招いたようにも見えますが、同郷であるアンデレとペトロが取次をしたことを推察するのは容易です。そしてフィリポはナタナエルに「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」(45)と互いに知っている前提で話していますので、この二人は律法と預言者の書について一緒に学んでいた輩(ともがら)でありました。

 こうして天の父は人を遣わして召された人々を御子イエスへと結ばれます。ヨハネによって彼の弟子たちが、その兄弟を通してナタナエルのところまでイエス様が来られました。
 「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46)との一言は、ナタナエルの出身地であるカナもナザレに負けず劣らずの田舎であることを匂わせます。あんな田舎のナザレからメシアが出るぐらいなら自分はわざわざ故郷を飛び出してまで学ぶ必要はなかったのではないか、そのような思いがナタナエルの口からこぼれ出たようです。

 ところがフィリポに強いられてナザレ人イエスに会いに行くなり、なんとイエスは「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(47)とこれまでの彼の努力を見事に言い当てたので驚きです。アンデレもペトロもフィリポも皆イエス様に初めて出会ったのですが、なんとイエス様はナタナエルのことまでご存じの上でヨハネのもとへ歩いて来られたのでした。
 このようにイエス様との出会いは福音書に数多くありますが、いちじくの木の下にいた「まことのイスラエル人」ナタナエルと対照的なのは「徴税人の頭」ザアカイです(ルカ19:2)。彼は自分が仕切っていた町エリコへナザレ人イエスがやってきたと聞いて、「いちじく桑の木に登った」(同4)ところを主に見出されました。

 ほかにも使徒パウロにおいてはダマスコへ向かう途上で天から声が聞こえ、そこでイエス・キリストに出会いました(使徒9:5)。彼は回心してアナニアより洗礼を受けたのですが、後に主はサウロを捜し出すためにバルナバをタルソスへと遣わされました(同11:25)。
 主が捜してくださり、招くために人を遣わされます。弟子たちはいずれも自分でイエス様を信じたように思っていたようですが、たまたまイエス様に出会ったのではなく主のほうから見いだして近づいてくださったのです。

 「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか」(50)とイエス様がおっしゃるように、私たちはナタナエルのように自分の考え及ぶ限りで神の子キリストを知ろうとします。ナザレ人イエスと出会っただけならユダヤには多くの人々がおりましたが、イエスに従った人だけが「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(51)との祝福の言葉を受けました。


<結び>
 「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」(申命4:29)

 あなたはイエス・キリスト、神の子である救い主に出会っているでしょうか。出会ったことはあっても従うことをせず、通り過ぎてしまってはいないでしょうか。
 この世におりますと特に日本では信教の自由というものが保障されておりますので、キリストを信じることも信じないことも私たち人間の側に選択権があるかのように思われるでしょう。教会もまたキリストを信じた人たちの集団という一面もありますが、日本基督教団が信仰告白において「恵みにより召されたる者の集ひなり」と告白するように、教会は神からの召しが先に立っているのです。

 日本ではキリスト教系の信者数は130万人を下回っており (「宗教統計調査」令和5年、文化庁)、人口の1%に満たないことは30年以上も前から言われ続けていることです。翻ってキリスト教学校に通ったことのある人や若い頃に聖書を読んだことがあると仰る人はどれほど多いことでしょう。
 「見よ、神の小羊だ」と促された者も「来なさい。そうすれば分かる」と招かれた者も、言葉を聞いただけでなく従ったので主の弟子とされました。多くの人々はキリストに出会っても信じることも従うこともしないかも知れませんが、主の招きを受けてそれに応えた人だけがイエスに従った人として神の救いを受けるのです。

 「イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。』」(ヨハネ21:22)

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