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「最初のしるし」ヨハネによる福音書2章1-12節

2024年1月21日
牧師 武石晃正

 毎年この季節になりますと宇都宮界隈にも冬の渡り鳥が見られます。水辺にはハクチョウやカモの類が浮かんでおり、夕暮れには群れるカラスの目を避けるように身を低くして飛ぶ影が空を横切ります。
 教会の敷地の中にはジョウビタキという小鳥がしばしばやって来ます。牧師館の前で薪を割っておりますと、薪の中に潜んでいる虫を目当てにして軒やフェンスの上を行ったり来たりするのです。

 時には庇(ひさし)の上で待ち受けて、「カッ、カッ」と鳴きながら薪割りを催促することもあります。待たれていたのなら仕方ありませんので、予定になくとも1本2本と薪を割ってみせています。
 「空の鳥をよく見なさい」(マタイ6:26)と仰った方はご自身の計画のうちに時を定めておられますが、求める者には良い物をくださるのです(マタイ7:11)。本日はヨハネによる福音書を開き、「最初のしるし」と題して思いめぐらせて参りましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.最初のしるし
 新約聖書の4つの福音書でもヨハネによる福音書は独特な書です。他の福音書はイエス・キリストがパレスチナのガリラヤ地方で初期の宣教活動を始めたところからその活動について述べておりますが、この福音書だけはそれ以前の出来事から取り上げています。
 カナという町はガリラヤ地方の丘陵地帯にありまして、イエス様がお育ちになられたナザレから南のほうへ10㎞あまりのところにありました。いわゆる山里(ルカ1:39)と呼ばれる町の一つです。

 「イエスの母がそこにいた」(1)と主の母マリアが先にカナにおりまして、話の筋を追いますと新郎側の親戚として婚礼の切り盛りに携わっていました。「三日目に」とイエス様が洗礼者ヨハネのもとからガリラヤへ向かわれた日から数えていますので(1:43)、同じ親戚筋ではありながらマリアとは別に招かれていたことが分かります。
 「その弟子たちも」(2)婚礼に招かれておりますがこの時点ではまだ12使徒というわけではなく、恐らくフィリポとナタナエルに加えてアンデレとシモンの4人だったと思われます。主は弟子たちを連れてナタナエルの出身地であるカナと(21:2)、婚礼の後にアンデレとシモンの町カファルナウムを訪れる計画をもっておられました(2:12)。

 当時のユダヤでは婚礼は1週間ほどかけて行われるものでしたから、振舞われる食事や飲み物は十二分に手配されているはずでした。とはいえその日ごとに必要な分が用意されるでしょうから、ぶどう酒が足りなくなると滓(おり)を水で割ったような「劣ったもの」(10)が出されることになります。
 ですから母マリアが言った「ぶどう酒がなくなりました」との一言は、その日の分の良いぶどう酒がなくなったので「劣ったもの」を出さなければならないという意味だと受け取れます。ぶどう酒に混ぜるための水を汲んでくるよう召し使いたちへ命じれば済むのですが、マリアとしてはこの結婚を良いもので満たし祝福したいと願ったのでしょう。

 母とはいえマリアは主催者側の立場であり、イエス様のほうはラビ(ユダヤの教師)として招かれた客であります。招待客が宴の切り盛りに口を挟むべきではないでしょうから、イエス様が「わたしとどんなかかわりがあるのです」(4)と仰ったのはごく自然です。
 続く「わたしの時はまだ来ていません」との一言も突き放したように聞こえますが、「劣ったもの」さえ出していないのですからイエス様の出番ではなく召し使いの仕事だということでしょう。その証拠に「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(5)とマリアに命じられるまま、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われた召し使いたちはためらわずにかめの縁まで水を満たしています(7)。

 ここまでのことであればイエス様ではなくマリアにもできることであり、誰も疑問に思うことなく事が運ばれました。ところがぶどう酒を薄めるために汲ませたのかと思いきや、水がめに満たされた水をぶどう酒に混ぜずに「それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と召し使いたちは命じられたのです。
 召し使いたちは水がめから水を汲んだはずでした。しかしなんと世話役が口にした時、それはただの水ではなく「ぶどう酒に変わった水」(9)だったのです。

 「世話役は知らなかった」と文字通りに受けてよいのですが、「思いもよらなかった」「見当もつかなかった」という嬉しい驚きだったでしょう。それもそのはず、この時間になって残っているはずのない「良いぶどう酒」が出されたのですから。
 驚きのあまり花婿をわざわざ呼びつけて「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10)と世話役は絶賛しました。花婿には身に覚えがないことですし、知っているのは水を汲んだ召し使いたちとイエス様の弟子たちだけです。

 「わたしの時はまだ来ていません」と仰ったとおり人々の前には公にせず、弟子たちが信じるためだけにイエス様は最初のしるしをガリラヤのカナで行いました(11)。「この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された」(12)と書き添えることで、この出来事の前には主がしるしや奇跡を行っていないことを福音書は明らかにしています。


2.栄光を現された
 婚礼の出来事について一部始終を記した上で、福音書は「イエスは(中略)その栄光を現された」(11)と結んでいます。キリストがお受けになる栄光はヨハネによる福音書の主題の一つであり、主ご自身も「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(17:5)と祈られています。
 するとカナで行われたしるしは栄光を現すためでありますから、イエス様が救い主メシアであるということよりも天地創造の神として行われたしるしということになります。確かにメシアとしてのしるし(マタイ11:5)は旧約の預言者によって示されたもの(イザヤ26:19、29:18、35:5ほか)であり、それらはみな病や死からの解放のわざでありました。

 旧約においてはエジプトのナイル川の水が血に変わったことはありましたが(出7:20)、モーセも預言者たちも水をぶどう酒に変えるという奇跡を行った者はいないのです。従ってモーセの律法もアブラハムの契約も与えられていなかった頃、神の言葉によって水を元として行われた天地創造のみわざ(2ペトロ3:5)に等しいと言えるでしょう。
 本日の箇所を改めますと、イエス様は水がめに水を満たすよう召し使いたちに言いつけただけでした。水がめの上に手を置いたり「水よ、ぶどう酒に変われ」と命じたりしたわけでもなく、汲むために水の中に浸された器が引き上げられて「ぶどう酒に変わった水」となったのです。

 水の中から創造のみわざが起こされました。味見をした世話役は花婿にそれを「良いぶどう酒」であると告げましたが、天地創造のみわざにおいても水の中から創られたものはみな「神はこれを見て、良しとされた」(創世1:9)「見よ、それは極めて良かった」(同31)と喜び祝福されましたことを覚えます。
 創造主である神は被造物を良いもので満たす方であり、最初のしるしによってイエス様はご自身を示されました。思えばカナでの出来事は主の母マリアの一言から始まりました。

 マリアの半生を振り返りますと、この時40代後半を迎えております。降誕記事の中では「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」(ルカ1:43)と彼女を祝福した時のエリサベトと同じぐらいの年頃です。
 婚約していたヨセフと一緒に暮らし始めるより先にマリアは山里のエリサベトのもとへ身を寄せましたから(ルカ1:56)、彼女自身は婚礼において人々から祝福を受けるということができなかったでしょう。そのような身の上のマリアがカナの婚礼において水で薄めて劣ったものではなく良いもので祝福したいと願い、彼女の思いを受けたイエス様もまた最初のしるしによって栄光を示されたことです。

 使徒信条において私たちは「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」と告白しております。このマリアの願いにより主は「わたしの時はまだ来ていません」と言いつつも、天地創造の神として地を良いもので満たすことができる栄光を最初のしるしによって示されました。


<結び>
 「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネ1:3)

 思えば主なる神様が天地創造の御業において、人間を「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世1:26)と仰いました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(同2:18)と神様はそもそもご自分と交わることのできる存在として人間を創られことが分かります。
 「神はこれを見て、良しとされた」と一つ一つを良いものとしてお創りになった神様は、最初の人を男と女とに創り「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1:28)と祝福されました。残念ながらアダムとエバにおいてすべての人類が神様の前に背きの罪を負ってしまいましたが、身を隠した二人を「どこにいるのか」と呼ばわりながら主なる神はエデンの園を歩いて捜してくださった憐れみ深さを覚えます。

 すべての罪を贖い救い出すメシアであると世に現されるよりも先に、イエス・キリストは罪人たちが住まう地を弟子たちと歩まれました。主イエスはご自身が天地創造の神であり祝福の源であることを示すため、最初のしるしを婚礼の席で行われました。

「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(ヨハネ2:11)

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