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ヨハネによる福音書8章21-38節「真理を知っている人」

2024年1月28日
牧師 武石晃正

 年明けから大きな災害や事故の情報が絶えず報道されております。対岸の火事では済まされないことでありますが、直接に何か手助けができるものでもなく歯がゆいばかりです。
 普段の生活ではあまり使われないかと思われますが、災害や事故に際して「安全神話」という言葉が論じられることがございます。父子聖霊なる唯一の神を信じる者としては神話という語に抵抗を感じますが、「比喩的に、根拠もないのに、絶対的なものとして信じられている事柄」(「広辞苑」第七版、岩波書店)という点に関しては否めないものです。

 被災された方々や困難の中に置かれている方々に主の御腕が伸ばされることを願い祈ります。その傍らで私たちが信頼を置いているのはどなたであるのか、キリストを信じる信仰とはいかなるものかと問われるような思いがいたします。
 本日はヨハネによる福音書を開き「真理を知っている人」と題して取り扱って参りましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.「下のものに属し」「この世に属している」者
 4つの福音書はイエス・キリストと出会い、対話や問答をした沢山の人たちについて取り上げております。どの福音書もイエス様が誰と話をしたのかという単なる事実の記録ではなく、どのような立場にある者を主がいかに扱われるのかが示されます。
 朗読の箇所からどこまでさかのぼれば経緯が分かるでしょうか。場面としては7章に仮庵祭のためにイエス様がエルサレムに上られたところから繋がっています。

 「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか」(7:25)「人々はイエスを捕らえようとした」(同30)と既に祭司長たちとファリサイ派の人々はナザレ人イエスを排除する方向に決めておりました。イエス様が悪事を働いたからではなく、あの洗礼者ヨハネより多くの弟子をつくったことが一端です(4:1)。
 つまりイエス殺害の動機はねたみによるものですから、話合いで解決できるような代物ではないのです。気に入らないからやめさせよう、言葉尻を捕えて訴える口実を得ようという魂胆です。

 ただしヨハネによる福音書の執筆年代は他の福音書よりかなり遅く、諸説ありますが早くとも紀元90年代のことです。イエス様が地上におられた当時のユダヤの人々が頑なで分からず屋だったという話をするだけであれば、わざわざ改めて著すまでもないでしょう。
 「あなたたちはわたしを捜すだろう」(8:21、7:31)、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(8:21、7:34)とイエス様は同じことを繰り返し語られますが、ユダヤ人たち殊にファリサイ派の人々と対話が成立していないことが朗読の箇所からも分かります。福音書が書かれた年代の教会には「俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論」(1テモテ6:2)を唱える者たちがイエス・キリストの福音を歪めておりました。

 「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(8:21)とイエス様ははっきりとくりかえして仰いました(24)。ここでは「ユダヤ人」と記されておりますがユダヤの人たち全般ではなく、イエス様に対立したファリサイ派の人々のことです。
 彼らは自分たちのことを言われているにも関わらず理解できないので「自殺でもするつもりなのだろうか」(22)と見当違いなことを話し合うのです。見た目には同じユダヤの律法に立っているのですが、彼らとイエス様との間には決定的な違いがありました。

 「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」(23)と主は人々との間に一線を引かれました。この言葉は神を知らない異邦人へ向けられたものではなく、神の民とされていた人々へ向けられています。
 したがって福音書は教会の中に「下のものに属し」「この世に属している」者がおり、そのような者たちが「自分の罪のうちに死ぬことになる」と明らかにしているのです(24)。「あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある」(26)とファリサイ派の人々へ語られたのと同様に、ヨハネの黙示録では7つの教会に宛てて厳しい言葉が宣告されていることを思い起こします(黙示2-3章)。


2.真理と自由
 30節では「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」(30)と区切られておりますが、この人々の中から「いつもこの方の御心に適うことを行う」者が果たしてどれだけ残ったでしょうか。主は続けて「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(31)と御自分を信じた人々に向けて語られました。
 そこで主は「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と告げられます。真理という語について学術的に追求するならば枚挙にいとまがないわけですが、イエス様が「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と仰っていますので、ここで言われている真理とはキリストご自身であり命を与える道であります。

 せっかく「あなたたちを自由にする」と言われたのですが、人々はイエス様に食って掛かりました。ユダヤの人たちが「アブラハムの子孫です」(33)というのは良いとして「今までだれかの奴隷になったことはありません」とは果たして本当でしょうか。
 確かに奴隷ではないかもしれませんが、当時のユダヤの国はローマ帝国の支配下にありましたから自由とまでは言えないのです。一定の自治は認められつつもローマの元老院によって任命された王が置かれており、何と神殿の祭司たちの口から「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」(19:15)と発せられるほどです。

 自由は自由でもローマから与えられた自由であり、主なる神ではなくこの世の支配に縛られているのです。現代の日本でも憲法は信教の自由を保障しますが、これは「この世に属している」自由であって真理が与える自由とは全く異なる性質のものです。
 たとえば宗教法人法によって教会は法人として財産を管理することができるのですが、それだけでは「この世に属している」ことに過ぎないのです。ゆえに教会は「上のものに属している」キリストの体として世俗法とは異なる教会法、教会規則を自ら定めます。

 さて主は「子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(36)とも言われました。罪の奴隷であるものを自由にするのは真理とも子とも呼ばれておりますので、真理とはまさにキリストにある救いそのものです。
 16世紀のドイツでの出来事ですが、宗教改革者として知られる神学者マルティン・ルターが「95箇条の提題」をウィッテンベルク城教会の扉に掲示しました。彼は提題の前文において「真理を明らかにしたいという熱望」を掲げています。

 その真理を明らかにするために第1条は口火を切ります。「われわれの主であり師でありたもうイエス・キリストが『悔い改めよ、云々』と言われたときに、彼は信仰者の全生涯が悔い改めの行為でならなければならない、ということを意味されたのである」(「95か条の提題」『キリスト教文書資料集』、H.ベッテンソン、聖書図書刊行会。P.269)。
 「信仰者の全生涯が悔い改めの行為」は「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)と命じた洗礼者ヨハネに通じます。イエス様におかれても御自分を信じた者たちへ「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:31)と言われました。

 キリストの救いによって罪の奴隷が自由されるのですから、真理の前には全生涯が悔い改めの道であるのです。信仰者であろうと教会であろうと、目に見える成果に捕らわれているならば「この世に属している」ので罪の奴隷であるのです。
 「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている」(37)と言われたように、主は教会の人々に対して「あなたがたがキリスト者であるということは、分かっている」と言われることでしょう。人々は「あなたたちはわたしを殺そうとしている」とまで厳しく責められましたが、洗礼を受け聖霊にあずかったキリスト者であってもその後に堕落するならば「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者」(ヘブライ6:6)と呼ばれるます。

 「ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」(38)と追及されているのは、人々が天の父ではなく自分たちの父祖の言い伝えに縛られていることです。悔い改めることがないので御言葉よりも自分たちの慣例や因習を優先するのです。
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(31)とイエス様のお墨付きをいただける人はいるでしょうか。肉となって来られたイエス・キリストは「わたしは去って行く」と言われたとおり天へ帰られましたが、その御言葉は真理を知っている人の内にとどまり天の父の御心を行わせます。


<結び>
 「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」(ヨハネ8:38)

 人の手によって作られたものを人が妄信するのであれば、それは信仰ではなく神話のようなものでしょう。世の中においても教会においてもその集団における伝統や実績を受け継ぐことが尊ばれることが多いとしても、キリストにある真理を知ることより大切なものはないはずなのです。
 その場で信じただけで御言葉にとどまらない人たちが非常に多いのです。真理を知っている人はイエス・キリストの言葉にとどまり、上のものに属している自由を得ます。

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)

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