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「良くなりたいか」ヨハネによる福音書5章1-18節

2024年2月4日
牧師 武石晃正

 先週火曜日に敬愛する兄弟が前触れなく主の御許へ召されました。あまりにも突然のことであり、ご家族の悲しみと失意はもちろんのこと教会にも大きく穴が開いたようです。
 魂は既に主の御腕のうちにあると確信をしても、愛する家族また信仰の友に会うことができない寂しさは残ります。世の中では人は生まれたのだから死ぬのは当然のことだと言う方もおられるのかも知れませんが、果たして本当でしょうか。

 人は罪の中に生まれたので罪のために死ぬのであって、天地創造のみわざにおいて神様は人を死ぬようには創られなかったのです。それでも聖書は「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレト3:1)とも「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えて」(詩編90:10)と地上の生涯に終わりがあることを明らかにします。
 キリストが世におられた時代にも多くの人が生まれては死んだわけですが、主は愛する友ラザロの死に際して墓の前で涙を流されました(ヨハネ11:35)。自ら人となり死の苦しみを味わわれた神が私たちの救い主であることに慰めを覚えます。

 弱さに同情してくださる神が自ら人と共にいてくださいます。本日は「良くなりたいか」と題してヨハネによる福音書から思いめぐらせましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.ベトザタの池でのしるし
 「ユダヤ人の祭りがあったので」(1)とイエス様が当時のユダヤの掟に忠実であったことを言い含めながら福音書は場面転換をしています。母マリアとその夫ヨセフが過越祭には毎年エルサレムに上っておりまして(ルカ2:41)、イエス様もラビ(ユダヤの教師)として祭のたびに主なる神の前に立つこと(出23:17)を守っておられました。
 どの祭であったのか福音書は定かにしておりませんが、過越祭ほどではなくとも祭の時期ですのでエルサレムも特に神殿の界隈は巡礼者たちでにぎわっていたことでしょう。羊の門(2)は神殿境内の北門であり、その外に「あわれみの家」とも訳すことができるベトザタという名の池がありました。

 ベトザタは間欠泉のような池を囲った回廊で、医者では診ることができない病や障がいを抱えた人たちが身を横たえておりました(3)。祭の巡礼のために連れて来られても宮に入ることが叶わないので、その手前で逗留したり置いて行かれたりした人たちと思われます。
 「そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた」(5)と1人の病人に注目します。年齢は明かされておりませんが10代初めから患っていたとしても50才に届きますので、両親には先立たれ兄弟がいたとしても面倒を看ることは難しくなっていたでしょう。

 言い伝えあるいは民俗信仰として主の使いがベトザタの池の水を動かした時、真っ先に入った者はどんな病気でも癒されるというものがあったようです。38年も患っていたのであれば一度ぐらいは一番乗りをする機会もあって良さそうにも思われます。
 しかしながら自力で歩けない人には水辺に陣取ることができない理由がいくつか考えられます。回廊で神殿の参拝者などから施しを受けることができるのはよいとして、いつ動くか分からない水を待つよりも次第に日ごとの糧を得るほうが先に立ってしまうでしょう。

 そのような事情もあってか、池の周りではなく回廊のほうに「目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」が溢れておりました(3)。たくさんの病人がいるにも関わらず、イエス様はその中の一人を見いだして声をかけられました。
 病を癒すのは旧約の預言者的なしるしであり、いやしのしるしは他の福音書でも既に広く知られていたことです。また使徒たちもイエス・キリストの名によって癒しのわざを行っておりましたから、救い主のしるしは既に十分に示されていました。

 この箇所で問題とされているのは永年の病に冒されたことではなく、安息日に「床を担いで歩きだした」(9)いうことです。ユダヤ人と呼ばれている人たちが追及しているのも病気をいやしたことそのものではなく、床を担いだことに一貫しています。
 人々は「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」(10)と言うのですが、手段と目的が倒錯してしまっているのです。この福音書があえて他より遅れて著されたことを考えれば、同様の思い違いや信仰の掛け違いが教会の中で起こり得るのだと示されるのです。

 ところでこの病気をいやしていただいた人は自分を癒してくれたのが誰であるのか知らなかったというのです(13)。目の前に来たのが誰であれ、この病を癒すことができるのは天地創造の主なる神にほかならないと信じてその言葉に従いました。
 かけられた言葉、神の招きに対して彼は応えて立ち上がりました。根気よく待ち続けて約束のものを得たアブラハムの信仰(ヘブライ6:15)に通じるものです。

 アブラハムの信仰もまた召し出されて行先も知らずに出発した (同11:8)ところから始まりました(創世記12:1)。そしてアブラハムはその信仰ゆえに神の友と呼ばれています。
 さて「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って」(14)とあるように、病気を癒していただいた人がその場を立ち去らずに主なる神の御前に立っておりました。そこで主は彼を再び見いだし、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」(14)と祝福してくださいました。


2.良くなりたいか
 多くの病人たちが池の周りから回廊に至るまで横たわっている中、なぜイエス様はこの人を見いだされたのでしょうか。このところに重きを置いて読み返してみましょう。
 永年の病を負っている方に「良くなりたいか」と聞いて、そのようなことは聞かなくても当たり前のことだと答えるでしょうか。良くなりたいのは当然であるゆえに、むしろそれ以外のことに心を奪われてしまうこともありうるのです。

 病に限らずとも解決が困難な状況におかれて長い期間を経ますと、何とか生きていこうとするために状況を受け入れて順応することがあります。あるいは問題そのものから目をそらし、この人のように病気の癒しではなく池の水に入れてもらうことのほうを目的としてすり替えてしまうこともあるでしょう。
 周りの人たちと自分とを比べて「わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」(7)と言うところは事実ではあるのです。両親や家族に先立たれたのであれば、彼としては病気そのものの苦痛もさながら孤独感と情けなさに消え入りそうになるです。

 言葉にすれば38年と一括りにされますが、もしあなたが重い病気であり38年間祈り続ければ必ず治ると御告げを受けたなら、ひたすら祈り続けることができるでしょうか。この人も結果としては38年ではありましたが、医者からも祈祷師からも匙(さじ)を投げられてベトザタの池に身を寄せることしか残されていなかったとも言えましょう。
 40年近くも病気で苦しんでいたという人のことですから、手に職をつける機会もなく闘病生活を強いられてきたか、仕事に戻るには今や年を取りすぎています。どちらであれ働くことができなければ、良くなっても生きていくことが困難であるのは明らかです。

 では彼は何を求めてベトザタの池に身を横たえていたのでしょう。それは神の民として「男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない」(出23:17)という神の招きです。
 当時のユダヤでは病や障がいを負っている人はイスラエルの民であっても神殿の境内に入ることが許されておりませんでした。この人は神の民でありながら「異邦人の庭」と呼ばれる神殿境内の外庭よりも更に外に置かれておりました。

 もしこの人が身体的な病の苦しみから解放されることだけを望んでいたのであれば、「床を担いで歩きなさい」(8)と命じられるなり自分の町へと帰ることもできたでしょう。しかしイエス様が次に彼と出会われたのは神殿の境内でした(14)。
 主は弟子たちに常々「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と命じておられました。一方でこの人は神の民として主の御前に出ることを何よりもまず求めていたのです。

 他の人であればとっくに諦めて祈りに飽いているような年月が経ち、見失いそうになりながらもこの人は信仰を保って神殿のそばに身を置いておりました。そこで主は彼を見いだし長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と招かれたのです。
 天地万物を創造され「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)と言われた神ご自身が人として世に来られ、「良くなりたいか」と声をかけてくださいました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17)と安息日に一人の病人をいやすキリストは、きのうも今日も永遠に変わることのなく御自分を愛する者たちに近くおられます。


<結び>
 「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」(ヤコブ1:5-6)

 エルサレム教会の長老であった主の兄弟ヤコブが書き送った言葉です。私たちは知恵があると思っていても神様の御心を知ることや理解する力は著しく乏しいのです。
 全てのことに神様が定めた時があるとは分かっていても、それがいつであるのかを予め知っていることとは別のことです。知ったところで既に神様が定めておられるので何かを変えることができないとしても、主が近くにおられて働かれるとの確信は得られます。

 「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ5:17)と言われた方が私たちの内に働いておられます。「良くなりたいか」と主はいつも私たちが起き上がることを待ってくださるのですから、いささかも疑わずに信じ求めましょう。
 「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」(ヨハネ5:14)

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