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「試練に遭われた神」マタイによる福音書4章1-11節

2024年2月18日
牧師 武石晃正

 2月も半ばを迎えまして、お日和は三寒四温という言葉がぴたりと当てはまる頃合いです。教会暦では先週の水曜日が「灰の水曜日」にあたりまして、四旬節やレントとも呼ばれる受難節に入りました。
 創造主である神が自ら人として世にお生まれになり、私たちと同じように肉体を取って歩まれました。罪のない方が罪人として数えられたばかりか、キリストを妬む者たちは訴える口実を得ようとしたり命を付け狙ったりしたのです。

 受難週と申しますとイエス様が十字架に架かられる直前の1週間をさしますが、受難節はイエス様が地上において私たちのために受けられた様々な苦しみを覚えます。本日はマタイによる福音書を中心に「試練に遭われた神」と題して主の受難を覚えましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.キリストの受難
 日本基督教団信仰告白において「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり」と告白されておりますように、キリストは私たち罪人を救うために苦しみをお受けになりました。「人と成り」ということですからそもそもキリストは神であられます。
 ヨハネによる福音書の冒頭において明らかにされ、基本信条であるニカイア信条において告白されるとおり「すべてのものは主によって造られました」(讃美歌21 93-4-2 二ケア信条)。子なるキリストは「まことの神からのまことの神」三位一体なる唯一の神です。

 この創造主である神が人と成られること自体、どれほどの苦痛を伴われたことでしょうか。飢えることもなく乾くこともない方が朽ちる肉体を取られたばかりでなく、家畜の臭いが立ち込める場所に生まれては自らの排泄物にまみれるのです。
 けがれのない方が汚れる身となられたこと自体が受難あるいは災難と言えましょう。「我ら罪人の救ひのために人と成り」と告白しているわけですが、誰のためにこんな目に遭ったのかと言われてしまったなら合わせる顔もないほどです。

 ですから大きな意味での受難は降誕から既に始まっておりました。生まれた翌年には早くもヘロデ大王から命を狙われ(マタイ2:13)、外国であるエジプトへと追われる始末。
 ヘロデの死後に帰国したかと思いきやその息子アルケラオの治世に変わり、ガリラヤ地方に身を潜めることになりました(同22)。神であるのに神殿ではなく大工の家に住まわれ、4人の弟たちや何人かの妹たち(マタイ13:55,56)と身を寄せ合って暮らされました。

 人間である私たちからみればヨセフとマリアが築いた家庭は愛情あふれる豊かなものですし、もちろん父なる神もそれをご存じで御子を託されたことでしょう。それでも栄華を極めたソロモンでさえ盛大な神殿を奉献した上で「わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(列王上8:27)と告白したように、本来であれば神が地上にお住まいになることは考えられないことなのです。
 およそ30歳(ルカ3:23)になってキリストはご自身を世に現わされ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けることで罪人の一人として数えられました。罪がないのに罪人と等しく扱われたのですから、濡れ衣を着せられたことのある人ならどれほど惨めで心が蝕まれることかお分かりでしょう。

 全き神にして全き人なる主イエス・キリストが「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。十字架での苦しみと死に留まらず、キリストが全生涯において誘惑あるいは試練に遭われたので、この方を信じる者は全人的に救いときよめに与ることができるのです。


2.荒れ野での試み
 朗読の箇所に戻り、「荒れ野」(1)とは洗礼者ヨハネが主に活動の場としていたところです。ユダヤから見て「ヨルダン川の向こう側」(ヨハネ1:28)、すなわち川を隔てて容易には人里と行き来ができない荒れ野でヨハネとその弟子たちが過ごしておりました。
 このヨハネから洗礼を受けたことによりイエス様はこの一団に入門しておりますので、他の弟子たちと同じく荒れ野の暮らしをされたというのは自然なことです。しかし福音書はイエス様が単にヨハネの弟子としての暮らしをされたのではなく「悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて」とその真意を明かしています。

 「誘惑」と訳されておりますが「試み」「試練」という意味の語が用いられています。共観福音書とされるマタイ、マルコ、ルカの3福音書がともに荒れ野での試練について記しており、共通していることはヨハネの洗礼において父子聖霊なる三位一体の神が地に現わされた直後であることです。
 いずれの福音書もイエス様が聖霊に満ちて試練に遭われたことを述べています。洗礼の直後であることが強調されておりますので、目に見えているのはナザレ人イエスであっても御父がそこで働かれていることが示されます。

 従って荒れ野において子なる神キリストだけが誘惑を受けたのでなく、聖霊なる神もともに試練を受けておられます。そして悪魔は「中傷する者」、サタンは「告発する者」を意味しますが、地上において正しい人が試みられる時このような者が御父なる神を試みるのだと旧約のヨブ記は明しています。
 「四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」(2)というところへ「誘惑する者」が来ました。もともと悪魔から誘惑を受けるために荒れ野へ行かれたのですから、荒れ野におられた40日間すっと主はご自分を中傷する者から試練を受けていたことになります。

 40日間とは神の人モーセがシナイ山で神様と過ごした日数と重なります(出34:48)。十戒を授かるにあたってモーセは40日40夜の間パンも食べず水も飲まなかったように、主イエスも荒れ野で同じように40日間を耐え忍ばれたことでしょう。
 モーセは主なる神と顔と顔を合わせて語らいだ40日でしたが、イエス様は悪魔の誘惑に遭いながらの40日でした。ようやく定めておられた期間が終わったところへ更に追い打ちをかけるように「試みる者」(3)がやって来たのです。

 空腹のところへ「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(3)とけしかけられました。創造主なる神ですから石などなくとも無から有を作り出せるわけですが、人間的な目的のために奇跡を用いないことを御子において神が試みられたのです。
 2つ目の誘惑においてイエス様が「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(7)とお答えになっているのです。これも申命記からの引用であり、元の箇所には「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」(申命6:16)と書かれています。

 かつてエジプトを出たイスラエルの民が荒れ野で飲み水がないために民はモーセと争い、主を試みたのです。主なる神はモーセに「わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て」(出17:6)と命じられ、モーセが打った岩から出た水をイスラエルの民は飲んだことでした(民20:11)。
 さて、神を試みる者は聖書の言葉をも巧みに用います。都合よく用いるものですから、それはそれでもっともらしく聞こえるものです。

 第1世紀の教会においては「あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず」(ヘブライ5:12)と言われるような者たちがおりました。信仰歴ばかり長くて軽率にも聖書の言葉を振りかざすので、教師が説明しようにも耳が鈍くなっていたのでしょう。
 聖書の言葉を用いながら試みる者に対して、キリストもまた御言葉によって返します。ヘブライ人への手紙には「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブライ4:12)と書かれています。

 心の思いや考えを見分けるので、人を惑わし中傷する者の腹の内が明らかにされます。取り繕っても他人のせいにしても、御言葉に照らせば試みる者の魂胆は明らかです。
 3つ目の誘惑において悪魔は譲歩案のような提示をします。世のすべての国々とその繁栄ぶりについて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と神の前に交換条件を出したのです。

 罪の支配にあるこの世を悪魔が差し出そうとしています。キリストが世のすべての国々を手中に収めることができれば、被造物がすべて神のもとに返されることでしょう。
 しかし主は決して妥協することも頭を下げることもなさいませんでした。その一歩をゆずったら神の言葉がすべて嘘になってしまい、救いも何も失われてしまうからです。

 親切そうな申し出であろうと御言葉を用いようと、主は「退け、サタン」と明らかに拒まれます。父子聖霊なる三位一体の神が中傷する者、告発する者に全面対峙されました。
 ここからがキリストの公生涯、人となられた神がこの世から迫害を受ける歩みの始りです。キリストの体である教会も主と同じ道を歩むので、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と唯一まことの神だけに仕えます。


<結び>
 「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15)

 天において持っておられた栄光を捨てて、神であるキリストが人となられました。全き神である方が誘惑また試練に遭われたことで全き人となられました。
 キリストを信じて神の霊によって新生の恵みに与った者が試練に遭うとき、聖霊において神ご自身も共に苦しみを味わわれます。今は右の座におられますが、試練に遭われた神が私たちの弱さに同情していつも助けてくださるのです。

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4:16)

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