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「受難の予告」ヨハネによる福音書6章60-71節

2024年3月3日
牧師 武石晃正

 あなたは誰かを裏切ったという経験がありますか。生まれてからこのかた人を裏切るなど一度もないと胸を張ることができる人は本当に幸いなことです。
 逆に人に裏切られたということを数え上げようとすれば、もしかすると自分が誰かを裏切ったと記憶している回数よりも多くなるのではないでしょうか。事実その通りなのかもしれませんが、自分では仕方のない事情があったにせよ無意識に裏切ったり背を向けたりしていることもあるものです。

 裏切りと言えばイスカリオテのユダの名は裏切者の代表格として教会へ足を運んだことのない方にも知られているでしょう。果たして主イエスに背を向けたのはユダばかりだったのでしょうか。
 本日はヨハネによる福音書より「受難の予告」と題して読み進めて参りましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.命を与える神の霊
 朗読した箇所は「弟子たち」(60)と呼ばれている者たちがイエス様の話を聞いて「実にひどい話だ」とつぶやくところから始まります。イエス様がユダヤの人々に説いておられたのは、ご自分が「天からのパン」(31)「命のパン」(35)であるということです。
 6章では初めに「5000人の給食」「五餅二魚」と知られる奇跡が記されており、それを発端にイエス様とユダヤの人々との間の議論が展開されています。非常に大勢の人々が満腹したので彼らが食べたパンは本物だったわけですから、パンそのものではなくその後の教えが理解できなかったのでつぶやいたということです。。

 ここでの「弟子たち」は12人の使徒たちとは別の弟子たちで、この時点では人数が非常に大きく膨れていました。キリストを信じるには信じたのですが、その教えの言葉を難しいと感じた者がほとんどだったのでしょう。
 だんだんとイエス様から離れて行く様子は「つぶやいている」(61)「離れ去り」「共に歩まなくなった」(66)と記されています。彼らの胸中は60節に「こんな話を聞いていられようか」とあるように、耳で聞いても心の中には受け入れかねるというところです。

 問題は教えの内容や言葉そのものではなく、聞いている人の心の状態いわゆる不信仰にありました。自分たちの思うようにならないと、もはや聞くことができないのです。
 つぶやきを聞いたイエス様はこれらの弟子たちに対して「あなたがたはこのことにつまずくのか」(61)と驚かれたご様子です。ここで言われているつまずきとは信仰を断念してしまうことであり、罪に陥るという意味です。

 先にイエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54)と彼らに説かれておりました。しかし人々はパンを食べて満足したので、文字通りに肉や血を口にすることを考えてしまったのです。
 「あなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63)とはその場にいた弟子たちばかりでなく、福音書を通して御言葉を聞くすべての者に説かれています。日本のことわざに「論語読みの論語知らず」とありますが、聖書の言葉を字面だけ追っても命を与える霊によらなければ実に「肉は何の役にも立たない」ものであります。

 たとえば聖餐式におけるパンと杯も御言葉と聖霊によらなければただの食物に過ぎないわけです。肉なる食物は救いをもたらしませんが、御言葉と聖霊によって聖別されることで私たちを聖なる命にあずからせるのです。
 「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」(64)また「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(65) とイエス様はおっしゃいました。自分の力で信仰を得た思っている者は、自分の都合に照らしては身勝手に主のもとから立ち去ってしまうのしょう。

 「命を与えるのは“霊”である」と証しされたイエス様の御言葉こそ「霊であり、命である」(63)のです。このことを信じた弟子たちだけが「人の子がもといた所に上るのを見る」(52)というその時、「その人を終わりの日に復活させる」(54)との確信を得ることになります。
 

2.あなたがたも離れて行きたいのか
 「このために、弟子たちの多くが離れ去り」(66)と潮が引くように人々が離れて行きました。実はこの時が弟子集団の最盛期であり、その規模は洗礼者ヨハネの弟子たちよりも多かったのでファリサイ派の人々のねたみを引き起こしたほどでした(4:1)。
 幾千幾万と弟子が増えたところで、御言葉が語られると誰が本当に主のものであるのかが明らかにされます。キリストの弟子あるいは神の民でありながらも心が伴わないなら、御言葉を聞いても信仰から離れていってしまうからです。

 そして苦難でつまずく者もおりますが、勢いに乗っている順調なときにつまずく者も多いのです。世間では「苦しい時の神頼み」と申しますように苦難のときには「主よ、主よ」と一生懸命に求めるわけですが、ひとたび悩みが解決するならばたちどころにイエス様のことを忘れてしまうような者たちです。
 聖書を旧約から通して読んでおりますと、いつの時代も神の民は同じようなつまずきを繰り返してきたことが分かります。その一つはモーセの従者ヨシュアに率いられたイスラエルが約束の地カナンに入り、エリコの町を落としてから20年ほど経った頃のことです。

 主の約束どおり多くの土地を得たイスラエルに対して、ヨシュアは「あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」(ヨシュア24:14)と命じました。エジプトを出てから不信仰な世代がとっくに死骸を荒れ野にさらしたにも関わらず、何十年も経ったのにまだ「あなたたちの先祖が仕えていた神々でも」(同15)「あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら」(同20)と繰り返して問われなければならなかったのです。
 神の民は懐の中そして心の中に潜ませていた偶像を手放すことができなかったのでしょう。エジプトでもカナンでも住んでいる土地の人々に合わせた方が生きやすいため、損をしないように生きているうちにこの世的な価値観に支配されてしまうものです。

 新約の時代には教会の中で、しかも使徒たちの中でもつまずきや裏切りが起こりました。困難に直面しつつも異邦人にまでイエス・キリストの福音が伝えられ、教会がますます前進していこうとしていた年代の出来事です。
 シモン・ペトロでさえ異邦人たちと交わりを持っていたのに、エルサレムからユダヤ人の弟子たちがやって来るなり手のひらを反すように態度を変たということです。これについてパウロは「割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだした」(ガラテヤ2:12)と憤慨しています。

 しかもペトロばかりかパウロを導いたバルナバでさえ「見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」(同13)というのです。旧約の民も使徒たちも、そして私たちもまた立場の違いによらずキリストから目を離してしまうなら、この世の生き方や考え方に引き込まれてしまいます。
 さて福音書に戻りまして、イエス様は特に親しい弟子である12人に「あなたがたも離れて行きたいか」(67)と問われました。この問いは元の言葉では「離れようと思ってはいませんね」と否定の疑問文になっており、「いいえ、離れません」という答えを求めています。

 イエス様の求めに対して使徒ペトロが12人を代表して「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」(ヨハネ6:68)と答えました。続けて「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と告白しています。
 後に一度は主のもとを離れてしまうことになるとしても、神の霊によって「あなたこそ神の聖者である」と信じたので使徒たちは命を得ました。彼らの意思によるのではなく、霊であり命であると言われた方が「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」と使徒たちを導かれたからです。

 イスカリオテのユダについては福音書に記されているとおり裏切りが起こるのですが、他の弟子たちも主の十字架を前にして姿をくらますことになります。しかしイエス様は弟子たちが裏切ることもご存じの上で、彼らにご自身と苦しみを共に背負うことを望まれて受難の予告をなさいました。


<結び>
 「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』」(68)

 人数だけでみれば大成功を収めているところから主は御言葉によって人々をふるいにかけられました。見えるところ、形に表れるもの、腹を満たすものを求める者たちは神の霊も永遠の命も得ることはなかったのです。
 人々が離れて行くことをイエス様がこの時になって初めて知ったわけではなく、むしろモーセやヨシュアと共に歩まれた旧約の時代から重々にご存じでした。裏切られることも渡されることも知った上で「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」と主は弟子たちを招かれたのです。

 受難の予告を受けた弟子たちが一度は主を裏切ることになりますが、復活の主に出会い再び神の前に生きる者とされました。霊であり命であるキリストを信じる者が受難の予告を思うとき、私の罪のため主が渡されて身代わりとなられたことを心に刻みます。

 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)

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