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「香油を注がれた主」ヨハネによる福音書12章1-8節

2024年3月10日
牧師 武石晃正

 先日のある夕方にストーブの薪を運んでおりましたら、風に乗ってどこからともなくカレーの香りが漂って参りました。わざわざお勝手を拝見しなくとも、香りと経験によってカレーであるとか焼き魚であるとか実体を知ることができるものです。
 香りと申しますと、以前ある大ベテランの説教者が次のように語られました。「キリスト者の家系は4代目になってようやくキリストの香りを放つようになる。」

 統計上の話でもなければ聖書に記されているわけでもありませんが、老牧師の経験則としてあながち見当違いということもないでしょう。祖父の代からキリスト者であるわが家では甥が4代目にあたりますので、彼がいかに香るのかと主に大きく期待するところです。
 使徒パウロは「キリストを知るという知識の香り」(2コリント2:14)と記しておりまして、それは果たしていかなる香りでしょうか。本日はヨハネによる福音書より「香油を注がれた主」と題してキリストを知る知識を深めて参りましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.ベタニアでの香油注ぎ
 「過越祭の六日前に」(1)と福音書はイエス様がベタニアを訪れた日付を明らかにしています。ベタニアとはイスラエルの都エルサレムから南東へ3㎞ほど(11:18)にある町です。
 実は一つ前の祭である神殿奉献記念祭(10:22)においてイエス様とユダヤの指導者たちはエルサレムで激しく衝突いたしました。「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」(同31)という危機的状況に至りました。

 一方でベタニアにはイエス様と旧知であるラザロという男が住んでおり、彼は病気で死にかけておりました。ところがこのような状況ですから、彼を助けに行こうにも主の弟子たちが「ついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」(11:8)と制せずにはいられなかったほどです。
 朗読の箇所に「イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた」とありまして、よみがえったということですから彼は既に一度死んだのです。イエス様のベタニア到着が遅れたためにラザロは死んで葬られてしまいました。

 葬りから4日後に主は彼の墓を訪れ「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれると、腐敗が始まっていてもおかしくないのに死者がよみがえったのです(11:43)。そこで 病人を癒すばかりでなく死人をよみがえらせることもできるのは偉大な預言者にほかならないと、目撃したユダヤの人々の多くはイエス様を信じました(同45)。
 他方でこの話を聞いたユダヤの指導者たちは騒動になることを恐れ、いよいよ「イエスを殺そうとたくらんだ」のです(同50)。このような次第ですから「イエスのためにそこで夕食が用意され」(12:2)たものの、弟子たちは不安と緊張で仕方なかったことでしょう。

 居場所を知られればイエス様ばかりでなく弟子たちやラザロ一家も捕らえられて殺されてしまう恐れもありました。同時にあと数日をしのぎさえすれば、過越祭のエルサレムでイエス様が「ユダヤ人の王」「救い主メシア」として勝利を収めるであろうという期待も弟子たちの間には膨らんでいます。
 食卓を囲んだ部屋は火花が飛べば引火しそうなほどに張り詰めた空気です。そこへ一人の女が入ってきて、石膏の壺を大切そうに抱えてイエス様に近寄りました(マルコ14:3)。

 壺の中身は「純粋で非常に高価なナルドの香油」(ヨハネ12:3)ですので、器もそれにふさわしく緻密な彫刻や装飾がほどこされていたことでしょう。見るからに高価な壺を贈り物として捧げるのかと思いきや、マリアは突如その場で壺の封印を割り始めたのです。
 高価な香油を惜しげもなくイエス様の頭から足の先まで注ぎ始めたのを見て、イスカリオテのユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と叱責しました。壺の封を割る音に触発されて弟子たちの感情が一気に噴出したのでしょう、実は他の弟子たちも「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」と憤慨したと他の福音書は明かします(マタイ26:8、マルコ14:4)。

 弟子たちのうちの一人が裏切る者であると知りながらも、イエス様は「この人のするままにさせておきなさい」(7)となだめられました。貧しい人々への施しという善行は建前であって、ユダは金銭を求めており、他の弟子たちは自分たちのうちだれがいちばん偉いかと競り合っていたのです(マタイ9:46、18:1)。
 「わたしはいつも一緒にいるわけではない」(8)とイエス様が言われたのは貧しい人たちのことでしょうか、弟子たちの心を指しているようにも聞こえます。


2.葬りの日のために
 尊い行為や献げ物をしたということについては、ベタニアのマリアより先にイエス様へ香油を注いだ女性がガリラヤの町におりました(ルカ7:37)。罪深い女と伝えられるその女性は涙で濡らした主の御足を自分の髪で拭い、罪を赦して下さる方への愛を示しました。
 ガリラヤでは多くの罪を赦すことができる方であるとして香油が注がれました。ベタニアのマリアは「わたしの葬りの日のために、それを取って置いた」(7)と言われているように、この方が罪人の救いのために己を全き犠牲としてささげられることを告白しています。

 ではなぜマリアと彼女の家族だけが主の葬りのことを知っていたのでしょうか。イエス様は何度も御自分がエルサレムで多くの苦しみを受けて殺されると告げておられましたから、いつも一緒にいた弟子たちは繰り返し聞いていたはずなのです。
 以前にイエス様がこの家を訪れた時、マリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入って」(ルカ10:39)おりました。その時マルタはせわしなく立ち働いておりましたが、マリアだけは「必要なことはただ一つだけである」と主の言葉を聞くという自分の役目を果たしたのです。

 「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか」(サムエル15:22)とは旧約の王たちに任職の油を注いだサムエルの言葉です。そして彼自身もまた主の祭司であり預言者でした。
 もっともマリアの行いも捧げものも優れたものではありますが、しかし目に見えるところに重きをおいてしまいますと弟子たちと同じ考え方に陥るでしょう。「マリアは良い方を選んだ」(ルカ10:42)と言われたのですから、彼女が主の葬りの備えをしたのは御声に聞き従った結果であることが分かります。

 そして主はマリアから油を注がれることをよしとされてお受けになられました。ユダヤの言葉でメシアとは「油を注がれた者」の意味であり、祭司や預言者そして王が任職される時に頭に香油を注がれたことです。
 イエス様はこれまでに祭司として人々の罪を赦し、また預言者として病を癒し死人をよみがえらせました。いよいよ油を注がれた「ユダヤ人の王」としてエルサレムに上られようとされました。

 異邦人に渡されて殺されるというのですから処刑はローマ式、十字架刑であります。十字架刑とは二度と同じような重罪人が出てこないようにと、こんな目に遭うなら死んだほうがましだと思うほどの辱めと苦しみを群衆に見せつけるためのものでした。
 イエス様がメシアとしてお受けになる苦しみと無残さを知って、マリアと彼女の家族ははせめてもの思いとして非常に高価な香油を主にささげました。主を頭の先からつま先までよい香りで包み、マリアは自らも同じ香りに染まりました。

 注がれたナルドの香油は純粋で非常に高価なものですから、同じ匂いを付けているのはエルサレム広しと言えどこの2人だけでしょう。しばらくは匂いがおちないそうですので、イエス様が捕まればマリアも関係のある女として疑いをかけられることになります。。
 また「家は香油の香りでいっぱいになった」(12:3)のですから、その匂いによって犯罪人イエスがこの家にかくまわれていたことが知られてしまうでしょう。事実この後にラザロまで祭司長たちから命を狙われることになりました(同10)。

 エルサレムまで同行することはできなくとも、主が受ける苦しみも恥もこの身に負うという誓いのようにマリアは香油を自分の髪にまといました。主の葬りの日のための香油ですから、それを身にまとうことは主とともに葬られることの覚悟です。
 キリストの香り、ナルドの香油は主の葬りの香りとなりました。ほふられた小羊として焼き尽くすいけにえであり、罪を背負って死に赴く香りです。

 「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(7)と主はマリアの献身を受け取られました。死者の中からの復活の恵み者は主の死と葬りを身に負うでキリストと同じ香りを放ちます。


<結び>
 「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」(2コリント2:16)

 イスカリオテのユダばかりでなく他の弟子たちも行いや金銭感覚によってマリアの献身を値踏みしました。それらは異邦人が切に求めているものであり、死から死に至らせる滅びの香りです。
 ナルドの香油ほど高価な献げものはできなくとも、復活の恵みに与った者は自分の罪の贖いとして主が十字架で死なれたことを証しします。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と招かれた主は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:25)と約束されました。

 教会はキリストを知る知識の香りを湛えているでしょうか。香油を注がれた主が「ユダヤ人の王」として十字架にかかられ私たち罪人の贖いとなられたことを宣教と聖礼典によって告白します。

 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(1コリント11:26)

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