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ヨハネによる福音書18章28-40節「十字架への道」

2024年3月24日
牧師 武石晃正

 宇都宮へ赴任して参りまして4度目の受難週を迎えました。主キリストが受けられた苦しみと十字架の死を覚えつつ、この4年で携わった葬りのことを思い返しておりました。
 人はいつ死ぬのか分からないので死に対する恐れを感じることもありましょう。逆にいつどのように死ぬのかを予め知っているならば、その時が迫ることへの恐れと不安によって日々の営みが手につかないということも起こるでしょう。

 御自分がどのような死を遂げるかを知った上でわたしたちの一切の罪を赦すために苦しみを受け、十字架の死に至られたイエス・キリストを仰ぎます。本日はヨハネによる福音書より「十字架への道」と題して受難週に思いを深めましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.受難週の足どり
 受難週を迎える主日はイエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入られた「勝利の入城」(マタイ21:1-11)を記念し「棕櫚の主日」と呼ばれています。ヨハネによる福音書にはこれに先立ち、ベタニア村のラザロの家で主がナルドの香油を注がれたことが記されています。
 過越祭というユダヤで最も大きな祭の時期でしたので、エルサレムの都は多くの巡礼者で混雑しておりました。混雑に加えてイエス様がユダヤの指導者たちから命を狙われていたこともあり、一行は定宿であったベタニアから連日エルサレムとの間を行き来しました。

 またユダヤでは過越祭と前後して除酵祭という期間が定められており、1年に1度この時期には各々の家から酵母(パン種)を取り除くことになっていました(出12:15)。これは古くなって腐敗の元となってしまったものを取り除くきよめの期間ですから、まさにキリストがご自分の民に対して行おうとされていたことを示しています。
 形式的あるいはうわべだけの信仰、「古いもの」(ルカ5:39)と呼ばれるものをことごとく暴き、油を注がれた「ユダヤ人の王」は裁き主としての権威を示されました。その最たるものとして「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マタイ24:2)と象徴であった神殿さえ崩壊することを予告されたのも受難週のことでした。

 対するユダヤの指導者たちとしては自分たちの庭先でナザレのイエスに好き勝手なことをされたわけです。彼らは民衆を腐敗させる者を取り除くべく、除酵祭にあって「イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた」(ルカ22:2)のです。
 とはいえ群衆はこぞって子ろばに乗った「イスラエルの王」を担いでいましたから、あのファリサイ派の人々でさえ「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」(ヨハネ12:19)と弱気です。なんとそこへイエスの弟子であるイスカリオテのユダがやってきて一発逆転の機をもたらしたのです。

 朗読はヨハネによる福音書18章の途中からいたしましたが、1節から11節にイスカリオテのユダによる裏切りとイエスの逮捕が記されています。主イエスが12人の弟子たちとエルサレムで過越の食事をした直後のことでした。
 祈るためにゲツセマネと呼ばれる園へ主は弟子たちを連れて行きました。普段よりイエス様は都の喧騒から逃れて祈るための場所を弟子たちに定めておられました。

 春分を過ぎて最初の満月が過越祭の「特別の安息日」(19:31)でしたので、この日は空気が乾いているパレスチナの夜空高くに十三夜の月が煌煌と輝いていたでしょう。夜中とはいえ真昼のような明るさです。
 するとそこへ主を裏切ったユダが兵士たちや下役たちを率いてやって来ました。弟子の一人シモン・ペトロが大祭司の手下に剣で切りかかるという場面もありましたが(ヨハネ18:10)、いよいよ主は捕らえられて縛られてしまいました(同12)。

 連行された先で行われた大祭司の尋問とユダヤの最高法院による裁き、人々から受けた暴言と暴行についてはマタイによる福音書がより詳しく述べています。12弟子の中でただ一人その様子を伺っていたのはシモン・ペトロでしたが、彼もまた主イエスが予告されたように鶏が鳴くまでに3度その身分を否んだのでした。


2.ポンテオ・ピラトのもとに
 使徒信条は主の受難についてローマの総督ポンテオ・ピラトの名を挙げています。当時ユダヤはローマ帝国の属州であり、ローマ帝国の総督が置かれていました。
 アンナスやカイアファという大祭司の名ではなく、使徒信条はあえてローマの総督「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」たと告白しています。なぜユダヤの指導者ではなくローマの総督であるのかまでは分からずとも、福音書を読むにあたり異邦人であるピラトの存在に着目して主の受難を考えることは意味深いものです。

 ユダヤ人たちによる尋問は事実や根拠に基づくものではなく、むしろ彼らの気晴らしや腹いせのようでもありました。明け方になってイエスの身柄をローマ総督の官邸へ移すまで尋問を続けたのは祭の勢いもあったのでしょうか(28)。
 カイアファのところから来たユダヤの人たちは総督官邸までイエスの身柄を届けたものの、異邦人の屋根の下に入ることで身を汚すことを避けました(28、ルカ7:6参照)。以前にはユダヤの人々のうちある者たちがイエス様を崖から突き落とそうとしたことや(ルカ4:23)石で打ち殺そうとしたことがあった(ヨハネ10:31)にもかかわらず、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」(31)と口を拭う始末です。

 しかし総督のもとへ突き出されるほどの犯罪人にも見えないので、ピラトは「どういう罪でこの男を訴えるのか」(29)「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」(31)と差し戻そうとしました。そしてピラトは再び官邸に入り、自らナザレのイエスに尋問することになりました(33)。
 他にも問うたことはあったでしょうけれど福音書はピラトの言として「お前がユダヤ人の王なのか」(33)「やはり王なのか」(37)と王であるキリストに焦点を当てています。これに対して「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(34)とイエス様は尋ね返しますが、これは「どういう罪でこの男を訴えるのか」(29)とのピラトの言葉との突き合わせになっています。

 総督としての考えであればローマへの反逆が疑われなければなりませんし、ほかの者すなわち祭司長たちの訴えによるのであればユダヤにおけるあくまでも宗教上の違反ということになります。そこでピラトは「わたしはユダヤ人なのか」(35)と民族内の問題に巻き込まれたくないという態度をあらわにしたわけです。
 さて、福音書は「真理とは何か」(18:38)とポンテオ・ピラトとともに読者に問わせます。その答えはどこにあるのでしょうか。

 「わたしの国はこの世には属していない」(36)と言われていますからイエス様がご自身を「天から降って来た者」(3:13)と指しておられる箇所が手掛かりです。この方が「上げられねばならない」すなわち十字架にかけられることによって「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」(同15)こと、これがキリストにある真理です。
 ここでも「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(37)と主はピラトに対して明かされました。これはピラトにとって「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われた方の恵みを受ける唯一の機会だったでしょう。

 同じように誰でもキリストにある真理また永遠の命を受ける機会が一度ぐらいはあるのす。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われる傍ら、求めてながらも答えを受け取らずに通り過ぎてしまう人はいかに多いことでしょう。
 ローマの総督という権威者でありながらピラトの胸中が動揺と葛藤に占められていた様子は、彼が官邸の中と外庭との間を何度も出入りしていることから伺えます(18:39、38、19:4、13)。「自分たちの律法に従って裁け」(31)とは言ったものの最終的には「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(38)とイエスの無罪を認めざるを得なかったのです。

 キリストが罪のない方であることが神の民ではない者の口から告げられました。異邦人でさえ十字架の下で「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27:53)と告白したのです。
 祭の慣例として死刑囚の一人が釈放されることになっていましたが(ヨハネ18:39-40)、ユダヤの人たちは罪のない方ではなく強盗すなわち「暴動と殺人のかどで投獄されていた」(ルカ23:19)男の釈放を求めました。彼の名はバラバ・イエスといいました(マタイ27:16)。

 バラバと名乗る強盗イエスの身代わりとして「ユダヤ人の王」メシアであるイエスが十字架刑に処されることになりました。このバラバ・イエスこそ罪人である私であり、あなたなのです。
 御子がポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられたことにより、罪のない方が死なれただけでなく私たち罪人の身代わりとなられたことを明らかにされました。


<結び>
 「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(マタイ20:19)

 葬られても3日目に復活するから死んでくれと頼まれて喜んで命を捨てることができる人はいるでしょうか。キリストが十字架上で受けた苦しみを思うだけでも身が縮み、痛ましさに震えあがるほどです。
 この世に属する方ではないのにわざわざ世に来てくださった上に、同朋から捨てられるばかりか寝食を共にした弟子たちからも見放されました。肉体の痛みに負けず劣らずの恐怖の中、どれほど惨めな思いをなさったことでしょう。

 それでも主が苦しめられたのは私の罪のため、身代わりとなって下さったからだと今は知っています。十字架への道は主がゴルゴタへと向かわれた道、信じる者が皆永遠の命を得るために人の子が上げられた道です。

 「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:37)

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