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「キリストの復活」ヨハネによる福音書20章1-18節

2024年3月31日
牧師 武石晃正

 イースターおめでとうございます。イースターはキリストの復活をお祝いする日です。
 使徒信条において「葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白されておりますように、復活されたキリストは週の初めの日の朝にお姿を現わしました。ですからキリスト教会の多くは週の7日目の安息日ではなく週の初めの日にキリストの復活を記念して礼拝を行います。

 本日は朗読したヨハネによる福音書を中心に「キリストの復活」と題して主の死による贖いと復活の恵みとを受けましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.十字架にかかり、死にて葬られ
 死んで葬られたので復活があるのです。イエス様の直接の弟子たちと初期の教会は復活を覚えて週の初めの日に集まりましたが、最大の関心は神が人として世に来られたことと肉体を取られた神が死を味わわれたことにありました。
 使徒をはじめとする弟子集団は彼らの主を記念してパンを裂くことを営みの中心に据えておりました(使徒2:42、20:7)。主の晩餐すなわち聖餐においても裂かれたパンは杯とともに「主の死を告げ知らせる」(一コリント11:26) ものとして制定されています。

 聖餐とともに聖礼典である洗礼についても、使徒パウロは「キリスト・イエスに結ばれるため」「その死にあずかるため」のものであるとしています(ローマ6:3)。もちろんそれはキリストが死者の中から復活されたように私たちも新しい命に生きるために与えられたものではありますが、まずは「洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる」ことが先にあるのです(同4)。
 弟子たちとしては罪のない方を十字架につけてしまった、死ななければならないのは自分のほうだったと深く心を痛めておりました。主の死を自分の身に負うところのその先に主の復活があったのです。

 よってキリストの復活を祝うにあたっては「わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかる」(同6)ことが前提にあるのです。死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがないように、キリストと共に十字架につけられた私たちが罪に対して死んで神に対して生きていることがイースターの喜びの源です。
 ですから今日、私たちはキリストの復活を祝うにあたり主の十字架の死と葬りのことを覚えます。十字架上で発せられた主のお言葉をいくつか思い起こしてみましょう。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:24)罪のない方が2人の強盗とともに十字架につけられ、両手両足を太い釘で打ち付ける者たちやあざ笑う者たちのためにとりなされました。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と2人の強盗のうち一方へ語られました。死刑を受ける身でありながら「この方は何も悪いことをしていない」(同41)「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42)と信仰を告白した者への福音です。

 昼の12時に全地が暗くなり3時まで続く中、主は大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)「わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編22:1)と叫ばれました。痛みと渇きと身が裂かれるほどの苦痛の中から「成し遂げられた」(同30)と叫ばれた時、聖書の言葉がすべて実現したことを示すようにエルサレムの神殿では垂れ幕が真っ二つに裂けました(ルカ23:42)。
 そして最後に主が「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれて息を引き取られると(同46)、日没から始まるユダヤの安息日を前にローマの兵士たちが囚人たちを十字架から降ろしました。既に息を引き取ったイエス様のわき腹を槍で突き刺した兵士もおりました(34)。

 亡骸はアリマタヤ出身のヨセフと(38)もう一人の議員ニコデモの手によって新しい墓へ葬られました(42)。全身に香料を塗りながら亜麻布で巻くのが彼らの葬りでしたが、特別の安息日が迫っていたので取り急ぎの手入れしかできなかったのでしょう。
 洞穴のような墓の入口が大きな石で閉じられるのをマグダラのマリアともう一人のマリアが見届けていました(マタイ27:61)。安息日が明けた週の初めの日に改めて遺体の手入れをするためです。


2.三日目に死人のうちよりよみがえり
 安息日が明けた朝すなわち「週の初めの日、朝早く」(1)にマグダラのマリアはもう一人のマリア(マタイ28:1)とともに主を葬った墓へと向かいました。ヨハネによる福音書は筆者自身が目撃した証言として書かれておりますから、彼女たちについての詳細は先に伝えられていた他の福音書の証言に委ねています。
 空っぽの墓を見て驚いたマグダラのマリアは主の弟子たちのところへ知らせに行きました(2)。主を知らないと3度拒んだシモン・ペトロともう一人の弟子が知らせを受けて墓へ駆けて行きました。

 どちらが先に駆け着いたのかは些細なことかもしれませんが、この人たちしか知らない事実です。ヨハネが先に着いたという事実を知っている確かさをもって、先に墓に着いた弟子も直ちに墓の中へ入った弟子も「亜麻布が置いてあるのを見た」(6)と証言します。
 ついひと月ほど前になるでしょうか、ベタニア村でラザロが墓の中から生き返った時には「手と足を布で巻かれたまま」「顔は覆いで包まれて」(11:44)おりました。ところが同じく生き返ったにしても2人の弟子が到着したときには既に主の体がなくなっており、亜麻布と顔の覆いが別々に置かれていたのです。

 誰かが遺体を盗んだのであれば布ごと持っていくでしょう。大きな地震と主の天使が現れたことで驚き恐れたとはいえ番兵が朝まで墓を守っていたのですから(マタイ27:66)、誰かが遺体を盗んでいきようもないのです。
 ではペトロともう一人の弟子はイエスの復活を願うあまりに思い込みや錯覚をしたのでしょうか。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」(9)と書かれておりますので、彼らが亜麻布だけをみたということは確かです。

 ペトロとヨハネが「見て、信じた」(8)のはイエスの復活そのものというよりも、まずはマリアから受けた知らせのことでしょう。こうして2人は墓が空っぽであったという事実をマリアとともに確認し、他の弟子たちのところへ報告するため帰りました(10)。
 主の天使がマグダラのマリアに現れたことについては4つの福音書のいずれにも記されています。その記述に多少の前後はありますが彼女が主の墓で天使たちや復活したキリストと会ったことは事実であり、そして教会は主の復活の第一の証人としてマグダラのマリアの名を語り継いでいるのです。

 理由は分かりませんが葬られて三日目によみがえったイエス様は真っ先にマグダラのマリアへお姿を現わしました(14)。彼女が捜していたのは主イエスの遺体であり、葬られた時には拳や鞭で散々に打たれてボロボロになった姿ですから、「それがイエスだとは分からなかった」のは無理もないことです。
 もし葬られたときのように腫れと陥没で歪んだ顔で現れたならイエス様であると気づいたでしょうけれど、週明けの早朝に墓へやってくるのは園丁ぐらいだとマリアは思いました。そこで「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください」(15)と願い出たところ、何と見ず知らずの園丁が彼女の名前を呼んだのです。

 「マリア」(16)と文字に起こせば一言ですが、自分の名前をいつもの声で呼んでくださったことそれだけですぐにマリアは「ラボニ」訳せば「わたしの先生」であると分かりました。ちょうど羊飼いが数多といる羊の中から一匹一匹をその名で呼ぶように、主は愛する者をその名で親しく呼んでくださったのです。
 「私に触れてはならない。」(17)と戒めてから、主はマリアを弟子たちのところへ遣わします。逃げ出した10人と3度も見捨てた1人をよく知った上で、それでも弟子以上に兄弟と呼んでくださったのです

 ただ生き返っただけであればラザロと同じく再び死を見ることでしょう。しかし主は「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(17)と栄光と永遠の命とを約束されました。
 主から言われたことを告げたマリアの役割は今や教会に与えられた使命となりました。福音書は実に今から2000年ほどの昔に書かれたものですが、ヨハネの筆を通してマグダラのマリアが「わたしは主を見ました」と今も私たちに証言しているのです。


<結び>
 「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。』」(マタイ28:5-6)

 キリストの死と葬りを覚え、弟子たちの裏切りは私たちの罪そのものであることが示されます。弟子たちが裏切ることもご存じの上で十字架にかかり私たちの罪の贖いとして死なれたキリストは、信じる者たちに命を与えるため死人の中から復活されました。
 死がすべての終わりであればキリストが十字架にかかることもなかったでしょう。十字架の死によってすべての罪が贖われただけでなく、キリストの復活によって神との和解が教会を通して信じるすべての者に与えられました。

 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました(ペトロ一1:3-4)

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