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盛大な祝宴

2017年04月30日
川崎 献一師
創世記21:1~8

キリスト教には禁欲的なイメージがありますか?クリスチャンは品行方正、酒や煙草もやらない真面目な人が多く、教会の敷居を高く感じさせている面もあります。一方、世の人は、お祭りや宴会が大好きです。最近は、煙草が体に悪いことから嫌煙家も増えています。その結果、煙草は吸わない分、お酒を飲む人が増えているとも言われています。でも、聖書は祭りを重んじています。旧約時代からの過越祭、これは出エジプト記にある神の御業、奴隷解放に対する感謝の祭です。また、新約時代、教会暦では3大イベントとして、クリスマス、イースタ―、ペンテコステの出来事は祭り(初代教会の誕生記念、今年は6月4日)です。つまり、祭というからには喜びです。教会では、アルコールこそ出しませんが、愛餐会では神から与えられた食材を料理して、神の家族としての交わりを持ちます。祭自体は、悪いことではありませんが、何を基準に祭をしているか?真の神を崇め、喜び、感謝しているなら、神は喜ばれます。逆に、神の御心から外れての祭や宴会なら人間中心の快楽的な罪と定められます。 

本日のテキストでは、人類全体の救いの基盤がアブラハム老夫婦の間に生まれたイサクに継承されることを学びます。アブラハムとサラは、まず何よりもイサクが誕生したこと自体を喜びました。3年位経って、乳離れするまで神の守りの中、成長できた記念日に、神への感謝を献げた盛大な祝宴でしょう。 

遠大な神の御計画による彼らの子孫の頂点にイエス様の到来があることなどは実感できません。それでいいのです。神の御業は、時間の経過と共に、それも長い歴史の中で示されていきます。子どもの誕生自体は単純な喜びですが、人類史上重大な意味を持つ命の誕生だったのです。私達も一つ一つの出来事に人間らしく一喜一憂しますが、神に愛されていることは不変です。時には、アブラハム夫婦のように不信仰にも、神の御言葉を苦笑どころか嘲笑することもあるかも知れません。それは自分の経験や世の常識からの人間的な思いです。信仰とは、それらを超えた神の御言葉と御業を受け入れることです。 

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