聖化体験
先週の新生体験は、第2の誕生日です。クリスチャンとして大事な通過点です。これを第1の誕生日である人生に例えるなら、この世に生まれてきたこと自体に意味があるという話ですが、もし生まれただけで満足なら、人は成長しなくてもいいのでしょうか?勿論、成長できない病の人や障害者の方は例外です。例外といえば、死ぬ直前に主イエスを信じて新生体験をして、そのまま召天ということもあるでしょう。私達は若くても高齢であっても、聖なる生活を命じられています。新生体験をした人は、イエス様によって罪が赦されています。そのイエス様が「私の十字架での死が、あなたのためにあったことを信じるなら、あなたの罪は赦されて魂も救われた。公に言い表して洗礼を受けよう。あとは、あなたの自由だ。自分勝手に生きよ。罪を犯しても、その罪も赦されているんだから。感謝しなさい」と言われたでしょうか?前半の赦しと救いと洗礼のくだりは正しいです。でも、罪を犯してもいいは間違っています。御言葉を都合よく解釈する人もいます。残念な現実ですが、罪を犯したくないのに、罪を犯してしまうから罪人です。消極的には「罪を犯さないようにする」姿勢も大事ですが、聖化とは積極的な信仰姿勢です。聖化とは、誰のようになればいいか?答えは簡単です。イエス様のようになることです。イエス様が、どんな方だったかとは福音書にあるイエス様の公生涯に、11節にある聖なる生活の模範があります。また、すべての人との平和とありますが、私達は家族や好きな人のみを愛していないか?また、利害関係にある場合は、自分が損をしたくないために、建前を使い平和を装って、人間関係を守っているだけではないか?と問われます。