アブラハムの再婚と死
人生期間が長ければ長い程、色んな経験をするものです。逆に短い人生であっても濃縮された生涯を送る人もいます。その代表例が、イエス様です。33歳の人生でした。現代日本のような高齢化社会では、まだ若者扱いをされそうな年齢ですが、神の子イエス様には、父なる神の権威からくる貫禄、オーラがあったことでしょう。そのイエス様が経験されなかったことの1つに人間的な家庭を造ることはされませんでした。弟子は12人を始め、多くの人がイエス様に従いましたが、女性との結婚をされず、子どもも造らなかったことは、その必要がなかったからです。それが天の父なる神の意志だったのです。
本日のテーマであるアブラハムは、地上の生涯を175年も生かされました。それでも、900才以上も生かされた同じ創世記の有名人アダムやノアよりは随分短命なのです。本日でアブラハム物語は終わりますが、説教で取り上げないと読み過ごされそうな箇所がアブラハムの再婚です。意外と知られていないかも知れません。再婚といっても、アブラハムは前妻と離婚したのではなく、死別しました。アブラハムの人生は、3つに大別されます。1つ目は、神と出会う前の75年、故郷ウルから移動して父テラが死んだハランで過ごしました。2つ目は、神の命令でハランを出てカナンで過ごし、約束の子イサクが生まれるまでの25年です。その中間の頃、妻サラの女奴隷との間にイシュマエルが生まれる出来事もありました。3つ目が100歳でイサクが生まれてから、妻サラに先立たれましたが、更に最期の75年をカナンに留まって生かされたのです。前妻サラとの間には、気が遠くなる期間、子どもが出来なかったのですが、後妻に当たるケトラとの間には6人も与えられました。6という数字は7という完全数に一つ足らない不完全数です。人数が多ければいいのではなく、5節にあるようにアブラハムはイサクに全財産を譲っています。
アブラハムは、神と共に歩んだ人生を全うしました。8節の「満ち足りて死に」とはどういうことか?この世の多くの人が「我が人生に悔いなし」と言えるか?「いや悔いだらけの人生ですよ」では、あまりにも惨めなので「終わり良ければ全て良し。いい人生だった」と自己満足を求める人も多いでしょう。一方、聖書では人間的には納得いかな くとも、それも神の御計画と受け入れると「納得できない」という思いが自我からのものと気付かさます。その自我が砕かれて神に委ねた時、「納得できなくても、神が満足されたら、それでいい」と思えるのです。アブラハムもサラの不妊から、イサクが生まれるまで待てなかったのに「ケトラとの間にはなぜ次々と子どもが産まれるんだ?納得いかない。これではサラが浮かばれない」と怒ったでしょうか?否、神がなさることこそ最善という思いが信仰の父・アブラハムにはありました。
アブラハムは、確かに波乱万丈な人生を送りました。私達にとっては老人の印象しかないかも知れません。逆にいうと、アブラハムやモーセは、高齢者になった人をも神は、充分に用いられることを学ばせます。アブラハムが、族長と呼ばれるのは、ユダヤ民族の長でもありますが、見方を変えればイシュマエルの子孫からはアラブ民族の長でもあります。そして、ケトラから出た子孫は、他の多くの民族の長でもあるわけです。これは、アブラハムの意図ではありません。何故なら命を造られ、子孫を繁栄させておられるのは神だからです。アブラハムにも自我はありましたが、罪を悔改めて自我が砕かれ、神と共に歩んだ信仰の父は、尊敬に値する人物に違いありません。