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特権

2017年09月24日
川崎 献一師
創世記25:27~34

 本日のテキストには、対照的な双子エサウとヤコブが登場します。古代社会で神が直接、造られた自然の中で伸び伸びと育ったことでしょう。現代日本のような学校などの教育機関もなく、人工的な遊び場もありません。便利な物がなくても、太陽、水、空気、食物、住む場所、衣類があれば人は生きていけるのです。そして、それらを必要な物として与えられる神の御心を行う信仰があれば、一番です。逆に現代人は、便利な生活に慣れているため、質素な世界には不満を持つでしょう。

エサウにあってヤコブにないものは「長子の権利」です。古代社会にも掟はあり、最初に生まれた者、特に長男には父の死後、多くの財産を受け継ぐ権利がありました。長男に生まれるのは、自分の意志ではありません。特に、この兄弟は双子なので、同時期に母の胎内にいました。この2人は胎内でも争っていたのです。無意識ながら活動的なエサウが早く胎内から出て、この世の空気を吸いたいとばかりに先に生まれました。エサウの勝ちです。同時に長子の特権も得ました。しかし、ヤコブは負けず嫌いの本性があり、エサウの踵(かかと)をつかんでいたとは将来は逆転してやるという野望を示されます。財産相続は父の死後のことです。まだ先の話と思ったかエサウは目先の食欲を優先し、更に誓いの言葉まで発してしまいました。ヤコブにも打算があったでしょうが、交換条件を持ち出すヤコブの言葉に応じるエサウも愚かです。そこでキッパリと「長子の権利を譲るなんて無理。普通に兄弟愛として食物をくれないのか?」と言うべきでしたが、現実は違いました。エサウは大げさに「死にそうだ」と言い、将来的に大事な長子の権利より、今ほしいという食物の誘惑に簡単に負けたのです。

新約時代の今、伝道礼拝のメッセージとしては、クリスチャンになれば特権が与えられるということです。それは神からの一方的な特別の恵み、祝福です。容姿も学歴も体力も家柄も関係なく、自力では得られません。主イエスの十字架の愛が自分のためにあったと信じることで与えられます。何人兄弟の何番目でも、一人っ子でも主イエスへの信仰によって「天に富を積む」のです。その財産には名前があります。それは消極的な表現なら「罪の赦し」です。積極的には「永遠の命」です。この特権に、もっと具体的な表現が必要ですか?多くの人にとって最大の敵「死」が怖くない心が与えられます。私達は、神と出会った後も出来るだけ自由に生きたいものです。でも、その自由が神の御心に適っているか吟味する必要があります。真の自由の出所は、神からと信じられる人には、特権が与えられています。イサクとリベカとい両親からも偏愛という反面教師にすべき点を学びました。新約時代は、どんな人も自由に愛せること、これは神の愛の似姿です。特権が与えられた喜びから、様々な義務や責任も喜んで全う出来るように導かれます。

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