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命の契約

2017年10月15日
川崎 献一師
創世記26:26~35

一見、堅いテーマですが、聖書から契約という言葉を除いたら骨抜きのキリスト教になってしまいます。聖書は、キリスト教の参考書ではありません。神と人類の絶対的な契約書です。毎週の主日礼拝は「命の契約」が保証されている確認のための喜びの集いです。洗礼式も、毎月行われる聖餐式も神との契約に基ずく儀式です。それは主イエスの十字架の愛による「罪の赦しの宣言」です。聖書が告げる罪とは、真の唯一の神から離れた状態を指します。世の中、特に日本の公立学校などでは教えないことをクリスチャンは、愚直に信じています。

アブラハムからの祝福の継承は、イサク、更に息子へと受け継がれますが、イサクの息子の内、エサウのことが記されています。このエサウは、双子の兄で長男として生まれましたが、次男ヤコブに長子の権利を譲ってしまいました。それでもイサクは、エサウに祝福を与えたいと思っていますが、神の御心は違います。その話は、来週になりますが、祝福から外れるエサウは、異邦人の妻2人を娶ります。アダムとエバの本来の夫婦関係とは違う一夫多妻です。態々、こんな記録が聖書にある意図は、神の祝福を受け損ねた人物の悲劇を示します。迫害からは解放されたイサクですが、一難去ってまた一難、今度は息子エサウの嫁たちとの人間関係が問題になります。イサク夫婦は、神と共に歩む信仰の家族ですが、エサウは俗世間の価値観を愛し、神を信じない2人の妻の存在が主に合って一致することが出来ない義理の親子関係が想像できます。

教会にも様々な人々が集います。老若男女、人種も超えて性格も各々違います。その多様性を一つにするのは聖書から学ぶ価値観に他なりません。人は、神の前では等しく罪人である事実、この世での評判は関係ありません。その罪人が唯一、赦されるのが教会の屋根に高々と掲げられ、また礼拝堂の正面に飾られた十字架に深い意味にあります。それこそ、本日のテーマですが、旧約は、あくまで神との古い契約です。その長い歴史を経て、イサクの子孫から誕生されたイエス様の到来による新約時代が今です。「命」の前に「永遠」という言葉が先行します。この「永遠の命」に基く信仰から、クリスチャンは神を知らない世の中に遣わされています。エサウの姿勢を反面教師にして、イサクのように平和を重んじて、そして何よりもイエス様を主とする人に、神の祝福は与えられます。

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