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唯一の祝福

2017年11月19日
川崎 献一師
創世記27:30~40

キリスト教は排他的で「救いはキリストからのみ」とする融通が効かない宗教でしょうか?また、本日の聖書箇所のように祝福が一つのみとは不寛容にも思われそうです。しかし、唯一神という大前提がある以上、神が定められたことが真理です。ということは、多くの神が存在するという考えから、もし真理という言葉を使うなら矛盾していないでしょうか? 

起きてしまった現実をも受け入れることが信仰ですが、ヤコブに騙されたことを知った父イサクのショックは相当なものです。ヤコブの嘘に対してイサクは何度か疑ったのですが、ヤコブの言葉を信じてしまいました。実は、それ以上に妻リベカが、息子たちが生まれる前に神の啓示を聴いていたことは真実だったと思い知らされたのです。神の選びの絶対性がこんな形で現れるとは、激しく震えるイサクは、神の介入により自我が砕かれたのです。一方、エサウも事の重大さを知っています。本日のテーマです。祝福は一つしかない事実、そして、祝福を与える祈りを神に献げた以上は変更は効きません。イサクの神への愚直な信仰をエサウは知っていたんでしょう。エサウは、泣き叫んで祝福を願い求めました。イサクはヤコブが祝福を奪ったという策略に関わらず、ヤコブが神に祝福されていることは御心だとエサウを諭します。もし、イサクが自分の判断で祝福式のやり直しをするなら、神の僕ではありません。

この旧約時代を学んでこそ、新約時代の恵みが光ります。日本キリスト教団信仰告白でも「旧新約聖書は、神の霊感によりてなり」と始まります。神は、旧約時代を体験してから、このままでは良くないと思われて新約時代を作ろうと決断されたわけではありません。天地創造以前からの御計画でした。決して偶然の産物ではありません。創世記で、祝福は一つと学びましたが、新約時代の私達は、いつでもイエス様の御名によって祝福を求めることが出来ます。それは、エサウのように自分中心に願う祝福ではありません。祝福は魂の救いであり、イエス様の十字架による贖罪信仰からのみです。神の独り子・イエス様を自分の罪からの救い主として信じられる人に造り変えられることです。ヤコブの祝福の儀式を行ったのは父ですが、祝福を与えたのは神です。神は唯一、イエス様も独り子なら、祝福の道も救いも必然的に唯一です。「エサウもヤコブも同じ双子の兄弟。両方平等に祝福してほしい」という声の方が、寛容に聞こえる人も多いでしょうか?でも、それは人情からの考えです。聖なる神の御心ではありません。

39節のイサクの預言は祝福の言葉ではありません。私達は、エサウを反面教師にすべきです。エサウは、この世の価値観を代表する人物です。エサウは、この世的には財産にも恵まれていきます。でも、子孫は異邦人となり、祝福は受けられません。泣き叫んだ涙も枯れて、祝福を受け損ねた事実をも忘れてしまう俗人として生きます。これを現代風に言うと、イエス様を信じなくても幸せに生きている人は多いという考えになります。私達は、日々の神の恵みに感謝しつつ、何よりもイエス様の福音、罪の赦しによる祝福を喜びます。主イエスの体なる教会へ行きましょう!

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