FC2ブログ

「最初の弟子たち」マタイによる福音書4章18-25節

2021年1月17日
担任教師 武石晃正

 2021年を迎えてから日が経つのがとても速く感じます。1月の半分が過ぎ、教会の暦では降誕節も4週を数えております。
 昨年12月には主のご降誕を覚え、クリスマスの礼拝をいたしました。聖書には主イエス様がお生まれになったことと、少しだけ幼少期のことが記されています。幼子のイエス様はヨセフに連れられて母マリアとともにエジプトへ移住し、ヘロデ大王が死んでからイスラエルの国に戻って来られました。そしてヨセフとマリアが住んでいたガリラヤのナザレに帰られました。これらはイエス様が3歳ごろまでの出来事です。
 その後について12歳になったときのことがルカによる福音書に短く記されているだけで、30年ほどの間についてはほとんど触れられていません。降誕節はイエス様の地上での歩みを覚える週ですので、受難節を迎えるまで公生涯と呼ばれる3年余りの期間について聖書に記されている範囲で学んで参ります。
 本日はイエス様が最初の弟子たちを招かれた記事を開いております。

PDF版はこちら


1.ガリラヤでの宣教
 朗読の箇所から説教題を「最初の弟子たち」といたしましたが、初めにその少し前のイエス様の足取りについて辿ってみましょう。
 洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられて、荒れ野で40日に及ぶ断食をされました。その際にサタンの誘惑を受けましたことが知られています(4:1-11)。荒れ野があるのはイスラエルの中でも南側ユダヤ地方の外れです。イエス様が育った比較的豊かなガリラヤ地域とは大違いです。洗礼者ヨハネが主に荒れ野で宣教をしていたことから、洗礼を受けたイエス様はそのままヨハネの弟子として歩まれたことが伺えます。

 しばらくはユダヤにおられましたが、洗礼者ヨハネが捕らえられるとガリラヤに退かれました(12)。ヨハネの弟子集団は解散し、イエス様もヨハネの弟子という立場を終えられます。大勢いたであろう他の弟子たちも、それぞれの故郷へと散り散りになっていきました。ヨハネの弟子だったベトサイダの漁師たちも自分の家業へ戻った頃です。
 イエス様はガリラヤへ戻られたものの、故郷であるナザレには長く留まるがありませんでした。ガリラヤ湖畔にあるカファルナウムという町へ移り住んだと書かれています(13)。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(17)と洗礼者ヨハネが宣べ伝えていたことばを引き継がれました。このことばはヨハネの教えを受けた弟子であれば心にピンと響きます。かつての師が「見よ、神の小羊だ」と示した、あのナザレのイエスの声が聞こえるのです。

 ヨハネによって整えられた道筋をご自身と一緒に歩む弟子を求めて、イエス様はガリラヤ湖畔の町へおいでになりました。ヨハネのもとで見出したガリラヤ訛りの漁師たちを探して、カファルナウムから順に訪ね歩かれたようです。とうとうベトサイダ(ヨハネ1:44)までやって来られたところから、本日の箇所に入ります。

2.最初の弟子たち(18-22)
 ある日イエス様が湖のほとりを歩いておられると、その教えを聞こうとして人々が集まってきました(ルカ5:1)。人々があまりにも熱心になって押し迫るので、湖に落ちそうになったのかもしれません。イエス様は彼らとの間隔を開けるため、近くで網を繕っていた漁師に頼んで舟を少しだけ漕ぎ出してもらいました。
 この漁師が後に使徒ペトロと呼ばれるシモン、そしてその兄弟アンデレでした(18)。イエス様は彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(20)と声をかけられました。すると二人の漁師はなんと「すぐに網を捨てて従った」のです。そればかりか彼らの漁師仲間であるヤコブとヨハネも、「舟と父親を残して」イエス様に従ったというではありませんか。

 この箇所だけ読むと、とても急な展開なので驚いてしまいそうです。彼らは仕事を途中で放りだして散らかしたままイエス様について行ったのでしょうか、お父さんに片づけを丸投げして息子たちだけさっさと出かけてしまったのでしょうか。
 実はこの4人の漁師は、この時イエス様に初めて出会ったというわけではないのです。また彼らはもともと洗礼者ヨハネの弟子で、ユダヤ地方にしばらく滞在していたことがありました(ヨハネ1:35-42)。その時にもガリラヤを離れておりましたので、学びや奉仕のために漁師の仕事を休むということは以前にもあったわけです。

 当時のユダヤにおいてラビと呼ばれる教師たちの中には、手に職をもって生計を立てながら神様に仕えるという学派もありました。あるいは神殿に仕えるレビ人という人たちも、当番にあたっていない普段の生活は農耕や牧畜などに勤しんでおりました。ですからこの漁師たち神様の御用のために仕事を投げうち、務めが終われば漁に出たとしても矛盾することではありません。
 もちろん仕事を手放して主の御用に仕えるということは立派なことですが、ヨハネやイエスという教師にお仕えする時だけ「網から手を離した」こと自体は驚くほどとんでもないことではなかったようです。むしろここでは時期を延ばしたり条件を付けたりせず「すぐに」従ったこと、その備えが彼らの中にできていたことが大切だと言えましょう。

 そうは申しましても、この漁師たちは慕っていた指導者ヨハネが領主ヘロデに捕らえられたという悲しみ、仲間たちと散り散りになった寂しさを抱えていたことでしょう。「天の国は近づいた」あるいは「(わたしの)後から来る方」を待つように指示は受けていたものの、それがいつになるか全く分からず網を打つ毎日です。漁師の生活に戻ったものの、一晩中網を下しても一匹も魚が取れず、意気消沈した朝もありました。そこへガリラヤ訛りで「悔い改めよ。天の国は近づいた」と聞こえたのですから、心の底をくすぐられように胸を躍らせたのだと思います。
 「人間をとる漁師にしよう」とイエス様はガリラヤの漁師たちを招きます。この言い回しは新約聖書の中ではこの弟子たちが呼ばれた時だけに用いられています。使徒として教会の働きを委ねられたのであれば、羊を飼うことや神殿を建て上げるという表現が当てられます。

 この漁師たちを遣わされるという表現は、旧約聖書のうちエレミヤ書の中に見られます(エレミヤ16:16)。これはイスラエルの人々を神様が救い出されるという預言の一部です。つまりイエス様は「イスラエルを建て直すしるしとして、あなたがた漁師を遣わすよ」と仰ったことになります。近づいた、近づいたと繰り返し語られてきた天の国が、いよいよここから始まるのだという号令です。
 こうして主から漁師が遣わされたとなれば、イスラエルの中でも心ある人たちはエレミヤのことばを思い起こします。遣わされた漁師の言葉を聞いて悔い改めるのです。なぜならエレミヤによると、漁師の次には恐ろしい狩人が遣わされるからです。山の上だろうと岩の裂け目だろうとどこへ逃げても狩りだされるという、容赦のない裁きが迫るのです。

 後日イエス様はイスラエル全体の救いを示すため、12部族にちなんで12人を選ばれます(10:1以下)。それに先立って、時が来たことを明らかにするべく「人間をとる漁師」を最初の弟子たちとされました。

3.恵みのみわざ(23-25)
 今日の箇所の後半はイエス様のガリラヤでの活動のまとめです。弟子たちを集める以前からガリラヤのいくつかの会堂で教えを説かれ、多くの病人を癒されていました(ルカ4章)。そして新たに召し出した「人間をとる漁師」たちの目に、ご自身のみわざをしっかりと焼き付けようと彼らを伴われました。これはご自身の権威を授けてユダヤ全土へ遣わすための備えとなります(10:5以下)。
 ペトロたちはイスラエル人として子どもの頃から聖書の話は聞いていましたし、洗礼者ヨハネの弟子になってより深く学びました。ですが実際に病気や苦しみ、特に当時の医術では手の施しようがなかった病でさえ癒されるのを見るのは初めてのことでした。

 聞いて知っているということと、実際に目の当たりにするのとでは非常に大きな違いです。しかも傍から興味本位で眺めているのではなく、恵みのみわざがなされている只中におかれているのです。詩編には「味わい、見よ。主の恵み深さを」(詩34:9)との招きがありますが、この漁師たちは驚くばかりの恵み深さを本当に味わい知ることとなりました。
 イエス様はご自分のみわざ、恵み深さを味わってほしいと思う者を招かれます。招かれてもついて行かなければ味わうことができません。弟子たちはイエス様に声をかけられ、招かれて、ついて行ったのでそのみわざに加えられたのです。

 ちょうどディナーの招待状に似ています。招待状を受け取っても、出向いて行かなければ美味しい食事をいただくことはできません。「へー、美味しい料理がたくさんあるんだって」と知っているだけではお腹を満たすことはできません。お招きがあり、お応えし、ついて行ったとき私たちは本当の恵み深さを味わい知ることになります。
 

<結び> 
 誰も自分の方からイエス様の弟子になった者はおりません。イエス様のほうから近づいて、招いてくださるからです。
 最初の弟子たち、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネも自分からイエス様に出会うことはありませんでした。まず彼らの先生である洗礼者ヨハネがイエス様を指し示してくれたので、この方がどなたであるのかを知りました。そしてガリラヤ湖のほとりで、イエス様のほうから近づいて声をかけられました。

 イエス様は愛する弟子たちに豊かな恵みを見せたいと願っておられます。そればかりか、ご自分の弟子となった者たちをとおして、天の国の祝福を地に受け継がせてくださるのです。
 神様のお言葉は今も聖書から語られており、主はご自分の教会を通してあなたを恵みのうちへ招いておられます。救いを受け、恵み深さを味わい知るために、あなたもわたしもイエス様に従って歩みだしましょう。

コンテンツ

お知らせ