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イエスの評判

2018年01月28日
川崎 献一師
マルコによる福音書1:21~28

「クリスチャンが皆、イエスに似ていたらキリスト教は広まるのに」と言った人がいます。また「イエス・キリストは素晴らしい人だが、キリスト教は好きになれない」と言う人もいます。「イエス様」という言い方は、クリスチャンに多くいます。一般的には「キリスト」と表現されます。私達は日本基督教団に属する教会です。「基督(キリスト)」を「キトク」と呼んでしまう人もいます。釈迦、孔子、キリスト、マホメッドという4大宗教の教祖という枠でくくられることもあります。この世では宗教を広めることを布教と呼ばれますが、キリスト教では伝道です。特に本日は、伝道礼拝です

イエス様には、神の権威がありました。イエス様は、ユダヤ教自体を否定はされません。むしろ、ユダヤ教で崇められている唯一の神の子、イエス様にとって神は父なのです。その真実を知っているのはイエス様以外にはマリアとヨセフです。ヨセフ本人も「イエスは私の実の子ではない。育ての親に過ぎない」と思っていた筈です。聖霊によって身ごもられたイエス様。聖霊とは神だからです。只、多くの人にイエス様は、大工ヨセフの子と思われていました。学歴はなくても、神の権威によってユダヤ教の安息日、つまり土曜日に会堂で教え始められたのです。シナゴーグとも呼ぶ会堂では、通常は聖書の学びと祈りが中心となります。当時の律法学者は、聖書知識に自信があったことでしょう。でも、形式的で退屈な聖書朗読にも思われていたかも知れません。それでも、宗教指導者を批判することは神を冒涜することにも思われ兼ねません。そこへイエス様の登場です。人々は今までの常識が砕かれるような経験をしたのです。「非常に驚いた」と22節にありますが、皆さんの日常にも、そんな想定外なことがよく起きますか?ニュース等で驚くことはあっても、他人事としてとることが多いでしょう。

イエス様は、本日の場面でも奇跡を行っています。驚かない奇跡などありません。安息日に礼拝をしている時に叫んだ人がいます。汚れた霊に取りつかれた男とは、尋常ではありません。こんな時、律法学者ならどうしたでしょうか?汚れた男は、聖なる会堂には相応しくないので、追い出したいでしょう。そんな者とは、関わりたくないという愛がない思いです。 只、ここで注意深く読むと、この男には責任がないことをイエス様は御存知です。つまり、汚れた霊の存在に問題があるのです。男が正気ではないのは汚れた霊の力です。同じ霊でも聖霊とは、逆の働きをしています。24節、汚れた霊は、イエス様の正体を知っています。他の人は、イエス様を預言者の1人、奇跡を行うカリスマ性がある方とは思いますが、「神の聖者」と見抜いた者はいません。汚れた霊は、悪魔の手下とも言えます。滅ぼされたくないので抵抗するのです。イエス様は、汚れた霊が人の中に住んでいることを許されませんでした。

イエス様は、罪とは縁がない方です。でも、罪に無関心ではいられない愛の方です。一方、律法学者たちは自分の罪を認めずに人の罪を裁きます。そして、罪人らしい症状が出ている分かりやすい罪人を排除する傾向にあります。私達にも、そんな面はないでしょうか?「いや、私は違う。もうクリスチャンだからとか何十年も信仰生活をしているから、私はイエス様に似ている」と言い切れる人はいますか?律法学者が、どんなに聖書知識に長けていても神の権威がないところに、神の御業は見られません。イエス様の御名には神の権威があります。それでイエス様の評判は、口コミで広がっていきました。現代では、イエス様の御名によって建てられた教会が神の権威によって伝道を託されています。勿論、罪がない聖なるイエス様と私達は違います。それは謙虚に認めつつも、そのギャップを神の権威、言い換えれば聖霊の力強い働きによって埋めて頂けるように祈り求めましょう。その熱い祈りが献げられている教会へ、是非、行ってイエス様の愛を知りましょう! 

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