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「キリストの住まい」ヨハネによる福音書10章22-30節

2020年9月27日
担任教師 武石晃正

 「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」と日本基督教団信仰告白では救いについて述べています。プロテスタント教会として伝統的に継承しています使徒信条において、全能の神の独り子である主イエス・キリストを信じると告白しています。
 また、「我らの主、イエス・キリスト」は「天に昇り、全能の父なる神の右に坐し」ておられるということです。聖書に基づく告白ですから真理ではありますが、果たして私たちの主は天に昇られて遠く離れたところから眺めておられる方なのでしょうか。
 ヨハネによる福音書から「キリストの住まい」と題して、私たちの主がどこにおられて働かれるのか考えて参りましょう。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。

  
1.エルサレムの神殿
 イエス・キリストについて福音書は「父の独り子」(1:14)「独り子である神」(1:18)と呼んでいます。私たちも「父・子・聖霊なる、三位一体の神」として信じています。神様が住まわれるとされる建物は一般に「神殿」と呼ばれます。聖書におけるまことの神様の神殿はエルサレムにありました。では神であるキリストはエルサレム神殿に住んでおられたのでしょうか。まずこのエルサレムの神殿について考えてみましょう。

 この人として来られた神は大工ヨセフの子としてお生まれになりましたから、神殿には住んでおられませんでした。また当時のエルサレム神殿はヘロデの神殿と知られており、純粋にユダヤ人が建て直したというものでもありませんでした。
 ここで「エルサレムで神殿奉献記念祭が行われていた」(22)と記されています。新共同訳以外の翻訳では「宮きよめ」などと訳される祭で、その言われは200年ほど遡ります。紀元前2世紀に異教徒の支配を受けていたユダヤの国は、律法など宗教上の制限や禁止を受けました。更にギリシアの文化や宗教が強要され、エルサレム神殿の祭壇の上にはなんとオリンポスの神の像が建てられてしまいました。そこでBC164年12月25日、ユダヤ人たちは蜂起し、いよいよ祭壇の奪還に成功しました。偶像を取り払い、宮をきよめて改めて神殿を神様に奉献したのです。

 この勝利の日を記念してイエス様の時代にも祭が行われていました。ローマ帝国の属州として圧制を受けている時代ですから、かつての日々と情景が重なります。民族の独立や領土の奪還へと民を率いる軍事的指導者を人々がメシアとして求めるのも無理のないことです。けれどそれは神様がくださろうとするメシアとはかけ離れていました。
 イエス様とユダヤ人たちとの会話が噛み合っていないのは、神様が与えようとされている恵みと彼らが求める救いとが大きく食い違っているためでしょう。神殿または神の家と呼ばれる場所に立っているにも関わらず、彼らは神様の御思いを知ることも神の子を迎えることもできませんでした。そしてキリストは神殿に住まうことはありませんでした。
 
2.ナザレのイエスの宿
 イエス様ご自身は実際にどちらに住まわれていたのか、聖書の記述をいくつか辿りながら考えてみましょう。
この方はナザレ人と呼ばれていましたが、宣教を始められたときはおよそ30歳で(ルカ3:23)、公の働きに出られて比較的早い時期から故郷のナザレを去られました(マタイ13:53-58ほか)。その歩みについてご自身が「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。人の子には枕する所もない」(ルカ9:58)と仰るところです。全くの宿なしということではないとしても、実際に野宿で過ごされたことも少なからずあったことが伺い知れます。

 ユダヤ人の指導者たちから妬まれるほどに人気を博していたのに、宿を貸してくれる人がいなかったのでしょうか。ユダヤ人と言いますと福音書ではイエス様と対立する立場として描かれることが多いので、皆がみな頑なで意地悪な人たちに思われるかもしれません。ところが実際には旅人、その多くは巡礼者である同朋をよくもてなすことが知られています。同朋を愛することは彼らの律法にも示されておりますから、神を愛するように人を愛する人たちもおりました。巡礼者たちを受け入れる宿、民泊があったと言われています。
 それにも関わらずイエス様たちが宿に受け入れられなかったのですから、やんごとなき理由があったのでしょう。幾つか理由が考えられますが、2つだけ例として挙げてみます。 

 まず1つは集団の人数が非常に多かったことです。イエス様と直近の弟子たちだけで10人余り、ほかに72人の弟子もいました(ルカ10:1)。更に女性たちがガリラヤからずっと従っておりますので、100人規模の集団が想定されます。宿は巡礼の時期であれば混雑し、時期を外せば逆に備えが十分ではありません。大人数を受け入れるのは困難でしょう。
 もう1つはユダヤ指導者たちとの反目です。殺意をあらわにしないまでも、彼らはことあるごとにイエス様を厳しく追及しました。病気の人が癒されたという奇跡の評判と併せて論争のうわさも広まっています。ナザレのイエスを拒むわけではないとしても、ユダヤ当局の目が怖くて家に招くわけにも参りません。10人20人なら手分けをして泊められるかもしれませんが、イエス様ご一行はご遠慮被りたいという心境です。

 では、イエス様に宿を提供した人いったい誰でしょう。その名が知られている例としては、徴税人のマタイ(レビ)やザアカイです。当時ユダヤの徴税人は罪人たちと一括りにされていました。マタイは「その家で食事をして」(マタイ9:10)と書かれておりまして、宿とは書かれていません。しかし当時のユダヤの慣例としては、旅人を家に招いて食事だけで追い返すということは到底考えられないことです。そして罪人と括られる人々とイエス様がしばしば寝食を共にしていたことは、ユダヤ指導者たちから「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカ7:34)と言われていたことから察することができます。
 これらの人々の中で何が起こったのでしょか。文字通り彼らのうちにキリストが宿られました。そこでは神の言葉が説かれ、聞いた人が悔い改め、罪の赦しが宣告されます。ユダヤの偉い先生たちは彼らを罪に定めて裁くことしかできませんでしたので、実に「父の名によって」(25)「だれも行ったことのない業」(15:24)が行われたのです。

 なお、旧約聖書によればきよめの宣告をするのは神の幕屋あるいは神殿に仕える祭司の役割です(レビ13章)。神殿の祭司たちはきよめを宣告することはできても、病や罪そのものをいやしたり赦したりすることはできませんでした。しかしキリストは罪人たちのただ中に住まわれ、赦しときよめ、いやしの御業を行われます。その業が「わたしの父の名によって」行われ、キリストは「わたしと父とは一つである」と宣言されています(30)。
 ナザレ人イエスは徴税人や罪人たちのうちに宿られ、そこでは神の名によって神の業がなされました。通念上は罪やけがれのただ中とみなされる場所で、独り子なる神はキリストとして住まわれます。

3.キリストの住まい
 こうして人としてお生まれ下さった救い主イエス・キリストは、父なる神様の名によって大きな業をなさいました。人の知恵や力ではなしえない、罪の赦しときよめです。一方で私たちはキリストが「天に昇り、全能の父なる神の右に坐し」ていると告白しています。地上には住まわれていないのでしょうか。最後にこの点だけ手短に触れましょう。

 キリストがどこにおられるかということを考えるにあたり「教会は主キリストの体にして」との信仰告白を手掛かりにできるでしょう。お体があるのなら住まうこともできるからです。この体はキリストが地上でなされた業を受け継いで行うのです。
 主が「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている」と言われたように、この体も父なる神の名によってキリストの業を行います。その業が教会をキリストのものであると証明します。

 どのような業でしょうか。「わたしの羊は私の声を聞き分ける」「彼らはわたしに従う」(27)とありますから、まず神の言葉が語られてそれを聞くことです(8:47、10:3)。キリストが地上におられた時と同じ業ですから、「徴税人や罪人」たちの間で語られて罪の赦しが与えられます。「わたしは彼らに永遠の命を与える」(28)とある通りです。
 神殿という礼拝施設の中だけでなく、宗教的な立場からは付き合いができないような人たちのところでも行われます。エリコの町の徴税人の頭ザアカイを見出したイエス・キリストは彼に「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と呼びかけました。これを聞いたザアカイは喜んで迎え入れ、キリストに対して、神と人との前で自分の罪を告白し悔い改めました。主は救いの訪れを宣告されました(ルカ19:9)。「父の名によって行う業」が行われたのです。

 このような者について「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28)「だれも父の手から奪うことはできない」(29)と主は証しされています。一泊だけの仮の宿ではなく、ずっと手放さずにいてくださるのです。そして弟子たちの間ではパンが裂かれ、キリストの体つまりキリストの業が一人ひとりに分かたれます。赦しのわざがなされ弟子たちが育まれるところ、そこがキリストの住まいです。
 
<結び> 
 エルサレム神殿を建立したソロモン自身が奉献式で次のように祈っています。
 「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(列王上8:27)
 神ご自身が私たち人間のように建物の中に住まわれるということはないでしょう。しかし、人となられた神が「わたしと父は一つである」とおっしゃられたように、そのお名前によってなされるみわざとともにおられます。

 恵みにより召された者が集う礼拝堂でも、恵みによって赦しのわざがなされます。パンが裂かれ分与されることにより、一人ひとりがキリストの体の部分であるとが確かめられます。キリストの業の一部として遣わされるとき、行く先々もまたキリストの住まいと呼ばれるます。
 私たち一人ひとりを大切な一部分として、キリストの住まいが建てられます。

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