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「神の富と知恵」ヨハネによる福音書10章31-42節

2020年10月4日
担任教師 武石晃正

先週木曜日(10/1)のことですが、友人からのメールに促されまして夕暮れに東の空を眺めてみました。見事に真ん丸な月がぽっかりと影を浮かばせ、夜空もまたいくらか青みを感じられるような明るさでした。中秋の名月とは言い得たものです。
立派な満月を眺めては、時折ふと中学の日本史の授業が思い出されます。詳しくは覚えておりませんが平安時代の藤原道長公、彼が詠んだとされる「望月の和歌」です。解釈には諸説あるようなので触れませんが、新月から日に日に満ちる月がいよいよ満ち満ちた様が詠まれています。
それから1000年が過ぎ、時代も人も移ろいましたが、月は変わらず満ち欠けしながら上ります。満ちることはあっても欠けることのない神様の富と知恵について、その一面に触れてみたいと思います。

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聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。


1.その業を信じなさい
 ヨハネによる福音書を続けて読み進めておりますが、今日の箇所で緊張感が一気に頂点に達します。31節には「ユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取り上げた」と記されています。殺意があらわになった瞬間です。
場所はソロモンの回廊(23)とありますが、これは神殿を取り囲む外周の壁にあたります。「神殿の境内で」とも併記されていることから、実際の舞台はその回廊に囲まれた内側の広場だったかと思われます。そこは異邦人の庭とも呼ばれておりますので、ユダヤ人は「異邦人」という呼び方を避けたのでしょう。とにかく神殿の境内の一隅でナザレのイエスという男を掴まえて、ユダヤ教の指導者たちが取り囲んで詰め寄っていました。

 もし皆さんがこの場に居合わせたとすれば、雰囲気が切り替わった瞬間を見逃すことはないでしょう。イエスを押しつぶさんばかりに詰め寄っていた男たちが、ドンッと突き飛ばすや否やサッと距離を開けるのです。数m~10mほどでしょうか。彼らの仲間や弟子たちも加わって、獲物を追い詰めた猟師のように一人の男を遠巻きに囲みます。
 どれほどの大きさか定かではありませんが、彼らは「石を取り上げ」(32)ています。もしこれが西部劇でしたら、「撃鉄が起こされた」とか「引き金に指がかけられた」という状況です。次の瞬間に無数の石は標的を目がけて投げつけられようとしています。もはや対話の余地は残されていません。囲まれた男にできることは恥を忍んで命乞いをすることか、恐怖と断末魔の叫びをあげながら死ぬことだけです。

 離れて取り囲んでいる人々に向けてナザレのイエスは大声で尋ねます。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」(32)と。これに対して「ユダヤ人たちは答えた」(33)とありますが、丁寧に説明をしたということではなく、「お前は神を冒瀆した!」「人間なのに自分を神だと騙った嘘つきだ!」など口々に罵るように言い返したことでしょう。
 対話が成立しないと明らかになっても、主イエスは聖書のことばを通して何とか神の民である彼らを説得しようと呼ばわります。すでに朗読しましたとおり「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と最大限の譲歩を示されました。その業とは人々の間で行われ、ユダヤ人指導者たちも目の当たりにしてきた紛れもない神の業です。生まれながらに目が見えない人が見えるようになったことを事実として認めたからこそ、彼らはその癒された男を追放したのです(9章)。

 イエス様のことばを聞いて、このユダヤ人たちは握っていた石を手放します。心を許したからではありません。ますます頑なになって、彼らは筋書きを変更します。ナザレのイエスは誰かが投げた石に当たって不幸な事故で死ぬのではなく、ローマ皇帝への反逆という重罪犯として処刑されるという筋書きです。この時代の彼らにとってローマ帝国の支配が全世界を意味しますから、全世界全人類の敵としてこの男を晒した上で亡き者にしようということです。
 神殿の境内で自らを神と名乗った重罪人を人々は捕えようとしましたが、当のイエス様は彼らの手を逃れて神殿を去られました(39)。行く先はヨルダンの向こう側(40、1:28)、ユダヤ当局の管轄外あるいは「荒れ野」(1:23)と呼ばれる土地です。そこは獄中で殺害されたバプテスマのヨハネが生前に洗礼を授けていた場所です。獄死した男の働きをイエスが継いだところで、福音書の記事は11章のラザロの死へと進んでいきます。

 神に属する者とはだれか、羊飼いはどなたであるか、と順に説かれた上で、福音書は読者の視点を「死」について向けさせていきます。死に臨んでなお御父のわざをなされる主は「その業を信じなさい」と招いておられます。

2.神の富と知恵
 ところで、人が死に臨んで何かを受け継がせようとするときには遺言を残します。本人の死によって成立する契約です。法律や税のお仕事をなさっている方は別として、日常的に遺言というものに触れる方はさほど多くないかと思います。
 遺言を英語で testament と言います。この testament であれば私たちにとって毎日の大変身近なものです。Old Testament とNew Testament、つまり旧約と新約から成る聖書です。古い契約は動物のいけにえの血すなわち命の代価によって成り、キリストが流された血つまり十字架の死によって新しい全き契約が成就しました(ヘブライ9:15-22参照)。それはキリストの死によって罪の代価が支払われ、御子を信じるすべての者が神の子とされるという契約です。

 御子はこの契約をお与えになるために神でありながら人として生まれてくださいました。ユダヤ人たちがイエス様を掴まえて「人間なのに、自分を神としている」ことを冒瀆だというのであれば、神が人間となられることはどれほどの屈辱的なことでしょう。きよく聖である方が罪とけがれのただ中に来られたのです。ちょっと通りかかったのではなく、そこを住まいとしてくださいました。
どれほどの思いか想像がつきません。強いて例えるなら、温泉に浸かって頭からつま先までピカピカに洗い上げたところで、「あなたのお宿はこちらです」と下水道へ通されたようなものでしょうか。おそらくそれ以上の隔たりです。下水道の中でも一段高くなっている一隅を指して「あなたのためにきれいにしてあります。特別な場所なのでどうぞここに住んでください」と言われて、あなたは快く聞き入れますか。虫やネズミが這いまわるところで暮らすことができるでしょうか。神様にとって罪やけがれとはこれら以上に忌まわしく、そもそも相いれないものなのです。

 ではこれ以上にない卑しめを受けてまで、神が人となり罪の代価を支払われたのは、何か神様が人類やこの世に対して負い目や借財があったからなのでしょうか。そんなことは決してありません。ましてや命で償わなければならないような負債など創造主なる神様にあるはずがないのです。神様はご自身の愛と恵みを受けるために創ったはずの人間が罪に陥ってしまったことを悲しまれました。罪の代価を払うどころかますます罪を犯し続ける私たちをひたすら憐れんでくださいました。
 アダムの罪によって人類ばかりでなく創られた世界すべてに罪の呪いが及びました。いわばサタンの支配あるいは所有にありました(マタイ4:9)。残念ながらこの支配の中で生まれ育った私たちは、サタンと罪の支配にあることさえ気づかず、むしろ生まれながらのものとして受け入れてしまっています。契約の書が与えられ、幾度となく預言者が遣わされていたのに、ユダヤ人たちが御子を目の前にしてもそれが分からないほどの支配です。サタンの支配にあるものでいくら支払ったとしても、罪の贖いにはなりえないわけです。

 誰がその代価を支払いえましょうか。サタンに対して有効であり、一切の罪とそれによって損なわれたいのちの代価を完全に支払い、呪われた被造物の一切合切を買い戻してなお余りある富を持った方だけです。あまりにも規模が大きすぎて、人間の知恵では計り知れないほどの恵みです。
 あの使徒パウロでさえも驚嘆と感嘆を交えて記しています。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。誰が、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(ローマ11:33)
 御子は十字架で血潮を流されるという罪の代価となられたばかりでなく、それ以前に神が人となられた時に神であることをお捨てになるというこの上なく大きな代償を払われました。創造のみわざが計り知れないように、罪の広がりとその根深さを知ることも、さらにそれらを覆って余りある神の富の豊かさを理解することも、私たち人間の知恵では到底及ばないものです。

 神の富と知恵、そのほんの一部分をキリストが「その業を信じなさい」と示してくださいました。「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」(38)と言われています。私たちがキリストのみわざを信じるとき、私たちの求めや思いをはるかに超えて働かれる御父もともにおられるのです。

 
<結び> 
 富あるいは豊かさということから、使徒パウロの手紙から読んで結びといたします。
 「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みをおくように。」
(1テモテ6:17)

 地上にあるものを尺度にいくら天を仰いでも、人知をはるかに超えておられる神の富と知恵を受け入れることはできないかもしれません。満月に物差しをかざしてもその大きさを測ることも、ましてその距離を測ることはできないのと同じでしょう。
 この世の富と知恵は廃れます。福音書が示すユダヤ人たちも、藤原道長公もしかりです。私たちは神の子とされたものとして、富と知恵に溢れる神の恵みのうちに生かされましょう。

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