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「憐れみを求める祈り」詩編51編3-11節

2020年11月1日
担任教師 武石晃正

 本日は聖徒の日記念礼拝として信仰の先達を偲びつつ礼拝をささげています。キリストを信じ、キリストを愛し、キリストに従って生涯を送った方々の歩みを覚える日です。
 信仰告白において「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」と口で唱えたとしても、実際にその上に立って生きた人がいなければ誰も福音の真理を見ることができないでしょう。困難に遭っても主の憐れみのうちに生かされて、信仰を守り通した先達があって、私たちにも救いの言葉が伝えられました。私たちもその歩みに倣う者とされましょう。
 信仰者の祈り書である詩編より「憐れみを求める祈り」について読んで参りましょう。

PDF版はこちら
聖書朗読と説教は礼拝後にこちらへ公開します。
1.聖徒の日について
 まず聖徒の日とはどんな日であるか思い起こしてみましょう。
 教会すなわちイエス・キリストの教えに従う弟子たちの集団は、彼らの主が弟子たちの見ている前で天へ帰られた直後からその活動が始まりました。ペンテコステの日に聖霊を受けいよいよ力を増した彼らはキリストの十字架と復活を力強く宣べ伝え、ユダヤの全土とサマリアからローマ世界へと普く広がっていきました。その背景にはユダヤ当局からの厳しい迫害があり、そこから逃れて散らされていったという経緯もあります。

 極刑に処せられた重罪人を神と崇めているわけですから、その迫害はナザレ人イエスを十字架につけたときと同じ勢いで弟子たちに迫ります。当初から殉教者が出たことは使徒言行録に記されているとおりです(使徒7:54-60)。その後もユダヤ人からの迫害が続く中、紀元60年代には暴君と知られる皇帝ネロの支配下での大迫害が起こり、多くの人々がキリストの名のゆえに惨殺されていきました。その中には使徒と呼ばれるキリストの直接の弟子たちも含まれています。
 主の弟子たちは親兄弟の死を悼みつつ、深い悲しみに包まれながらも、殉教した日を記念して礼拝をしました。時が流れ5世紀にもなると1年のうちすべての日に「聖〇〇の日」とつけられるようになり、同じ日に何人もの名前が重なっていきます。諸説あるようですが遅くとも9世紀には名だたる方々をまとめて11月1日に諸聖人の日としました。また翌日の11月2日には、名を残さずとも信仰を全うして死んでいったすべての信徒を記念する習慣ができました。

 のちに宗教改革によってプロテスタント教会では聖人への礼拝行為は廃止され、「諸聖人の日」としての礼拝は次第に廃れていきました。しかし信仰を受け継いでいくということや残された家族を慰め励ますために、礼拝や記念会を催すことはプロテスタント諸教会でも続いたようです。プロテスタント教会である私たち日本基督教団は11月第1聖日を「聖徒の日」として、亡くなられたクリスチャンを覚える日と定めています。

2.信仰者のあしあと
 さて、今年度は私たちの教会から3名の信仰者が天に帰られました。緊急事態宣言が発布され、またご家族様のご意向により、この礼拝堂で教会を挙げてのお見送りをすることは叶いませんでした。しかしお伝えいただいた訃報は教会の皆さんの耳に届き、礼拝に集まることもままならない中でもそれぞれ場所で祈りに覚えられました。
 講壇の前に多くの諸先輩方のお写真が並べられています。こちらの方々は既に天に帰られておりますが、キリストの恵みのうちを歩まれた方々です。神の恵みのうちとは申しましても、いつでも順風満帆だったわけではないと思います。祈り深く、不平不満を口に出すことはなかったとしても、時に孤独を感じ、時に先行きが見えずあわや絶望せんという場面もあったでしょう。

 今この地上に生きている私たちも同じく、苦しみや危機的状況を越えてしまえば「神様に守っていただいたね」「恵みによって助けられたね」と振り返ることができましょう。しかしその渦中にある時には、祈りの声さえ吹き荒れる嵐にかき消されてしまうような心細さを覚えます。困難を乗り越えさせていただいても、また次が来るのではないかと不安に思うこともありましょう。信仰者であっても完璧な人はなく、みな弱さを抱えています。
 また朗読しました詩編にもあるように、何よりも私たち人間は生まれながらに罪の中にあります(7)。正しく生きよう、正しい行いをしようと心で願ったとしても、誤りうる存在なのです。聖霊の助けによって死に至るほどの決定的な罪には及ばないよう守られるかもしれませんが、その生涯に全く罪がないということはあり得ないのです。この現実において信仰者は神様の前で非常に苦しむことがあります。

 この詩編の作者は今から3000年ほど昔にイスラエルの王として立てられたダビデという一人の信仰者の詩とされています。ユダヤの初代の王となったダビデでさえ、その道のりは険しく、一筋縄ではありませんでした。数々の戦いにおいて多くの血を流した張本人として、主の神殿を建てることは許されなかったほどです(歴下22:8)。
 王国がおおむね平定され、かつては戦の先陣に立っていたダビデは王宮に住まうようになりました。気が緩んだのか慢心なのか、その時ダビデは大変重い罪を犯してしまったのです。家臣の妻を見初めて、人を遣って我が物とし、部下に命じてその家臣を戦死に至らせたのです。姦淫と殺人の罪です。勇敢に戦った家臣の武勲を讃えて、残されたその妻を王宮へ引き取るという美しい体裁で装ったのです。

 罪に罪を重ねた末、神から遣わされた預言者に秘密を暴かれます。取り返しがつかない罪を神と人に犯してしまったと我に返ったダビデの心中を詠んだ詩編です。聖書とは「きよい書物」と記しますが、神のきよさの前で人の罪が示されています。人間に罪があることを初めから承知の上で、神様は悔い改める者をご自身の名のもとに受け入れてくださるという証しです。
 ダビデという方が12部族をして一国に治めるという偉大な業績を誇ったとしても、罪人には違いありません。もし彼が明らかに神に背いたまま悔い改めなければ、罰せられ滅びに至ったことでしょう。しかし悔い改めて立ち返る者を主は憐れんでくださいます。

 3.憐れみを求める祈り
 主なる神様の前で犯した罪を認めたダビデ王は、預言者に「私は主に罪を犯した」と告白しました。彼の行為は褒められるものではありませんが、直ちに罪を認めて救いを求めた姿は神様の目に留まりました。主のもとへ立ち返り憐れみを求めるようにと、ユダヤの王の名においてその祈りが詩編として残されました。

 3,4節はきれいごととして口をつく言葉ではなく、神の前での必死の命乞いです。しかし時にはこのような祈りの言葉によって、見た目を謙遜そうに装う人も出てきます。ほかの人から見ても「あの人はいつも穏やかそうで、お祈りも上手で、罪を犯すことなんてありえないだろう」と敬われる人々がいます。本人も人を欺こうなどという悪意を抱いているわけではないかもしれません。神様の前で正しくありたいと願うばかりに、立派な行いを身に着けているのです。
 イエス様が世におられたのは今から2000年ほど昔のことですが、当時のユダヤには律法学者やファリサイ派という民族の掟に精通した専門家がおりました。掟に従って立派に振舞い、善行に励み、街角で大きな声で人々のために祈っていました。聖書のことをよく知っていますから、今日の箇所のような詩編の言葉を用いて罪の許しを求める祈りもささげていたことでしょう。しかし彼らの思いは父なる神様へ向けられておらず、人々からの称賛と寄付、そして自分たちの名誉を求めていたのです。
 外側だけの宗教心を見抜いたイエス様は彼らを偽善者と呼び、「内側は強欲と放縦で満ちている」(マタイ23:25)「白く塗った墓に似ている」(同27)と断罪しました。墓と言っても火葬した骨を収める私たちの納骨堂のようではなく、当時のユダヤでは一定の処置をしたうえでご遺体をそのまま洞穴のような場所でミイラにするものでした。外側を漆喰などで真っ白に塗り固めたとしても、その内側は死と腐敗が詰まっています。

 詩編の作者は心の底から祈ります。「わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように」(9)ときよめを求め、「わたしの罪に御顔を向けず咎をことごとくぬぐってください」(11)と罪咎のまったき赦しを願います。罪の中に生まれた者はその本質が神に背く者であるので、自分の意志や努力では神に受け入れられるようにはなれないからです。憐れみ深く芽恵みゆたかな神様だけが、罪を赦しきよめることがおできになります。
 罪に対する無力さを認め、憐れみを求めて祈る者を神様はお見捨てになりません。私たち人間が完全にはなれないことをご存じなので、救いを求めて御腕にすがる者を主は拒むことをなさいません。憐れみを求める祈りをもってその生涯を主に委ねた者は、この世においても後においても、その魂は御手のうちに守られます。

<結び> 
 もし人が自分のためだけに生きてただ死んでいくのだとすれば、その終わりには何も残りません。報いをすべて地上の生涯のうちに受け取っており、受けたものはみなこの肉体とともに塵や灰となるからです。
 地上において長寿を全うする方もおられれば、道なかばで召される方もおられます。しかし神様の前では齢や信仰生活の長さ、あるいは教会の中や社会における功績などで分け隔てされることはありません。真心こめた愛のわざはすべて神様が覚えておられます。

 私たちにとって人生を思うように生きることは難しく、願ったとおりの最期を迎えることはできないかもしれません。主イエス・キリストが人として世に来られたとき、次のように祈られました。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:19)

 御心に委ねる祈り、憐れみを求める祈りは、いつの時代も神のみ前に受け入れられます。

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