「神の国と神の霊」マタイによる福音書12章22-32節

2021年2月28日
担任教師 武石晃正

 灰の水曜日(今年は2/17)から始まったレント(受難節、四旬節)は、その40日のうち早くも10日が過ぎました。
 かつてイスラエルをエジプトから連れ出された神ご自身が、人として世に来られ、40日の断食のうちに悪魔の試みを受けられました。荒れ野の誘惑から始まりゴルゴタの十字架に至る苦難の道を、主イエス様は3年余りかけて歩まれました。

 レントの期間を通して、イエス様が負ってくださった苦難について主に福音書から学んでおります。本日はベルゼブル論争と知られる箇所を開いております。

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1.神の国の訪れ
 この箇所は「目が見えず口の利けない人」がイエス様のところへ連れてこられ、イエス様がその人をお癒しになられたことから始まります。目が見えない人、口が利けない人がイエス様によって癒されるという出来事は9章にも記されており(9:27-32)、どちらの章にも「悪霊に取りつかれて」という表現が添えられています。
 もとの言葉を調べてみますと悪霊に占拠されている状態をさす一つの動詞で表されています。人の手には負えないとても悪い状態を意味するものです。現代日本では悪霊という言葉は耳慣れませんが、日本語でも病気や怪我という単語には「キ」「ケガ(レ)」といった何らかの悪い存在が言い含まれています。

 盲人らの癒しに関してイエス様は「ダビデの子」と呼ばれています(23、9:27)。ダビデの子とは単にダビデ王の血筋にあるということではなく、かつての預言者たちを通して約束された来たるべき王の称号です。そして目の見えない人の目が開かれるなどの特別な癒しのわざは、救い主メシアのしるしでした(11:2-6)。
 事実、癒しのわざを見て驚いた群衆は「この人はダビデの子ではないだろうか」と救い主の到来のであることを大いに期待しました。ところが当時ユダヤの人々の指導的立場にあったファリサイ派の人々は、神のわざではなく「悪霊の頭ベルゼブルの力」であると猛反発したのです(24)。

 ファリサイ派は宗教的に熱心で、人々のために祈ったり病人を見舞ったりと善い働きをしていました。神を敬い、掟に正しく、祈り深いことで人々から尊敬と称賛を受けるに値する存在でした。ところが彼らの熱心な祈りをもってしても神に聞き入れられなかった癒しが、白髪の一本もないような若い教師によって行われたのです。絶対に正しいはずの彼らの信仰と祈りが群衆の前で真っ向から否定されたことになります。
 そこで「我々の信仰は間違っていない。神が我々を否むはずがない。だからこの男のわざは神ではなく悪霊によるのだ」と結論し、自分たちの正しさを守るために相手を悪者に仕立て上げました。悪霊の頭などと随分とひどい言いようです。

 このようなファリサイ派の人たちに対して、イエス様は2つの点を追及します。一つは悪霊が悪霊を追い出すことは仲間割れであり、矛盾があるということです。もう一つは、「あなたたちの仲間」つまりユダヤ人の中にも悪霊を追い出す祈祷師がいたことです(使徒19:13)。悪霊を追い出す力が悪霊のものだと言うならば、各地の祈祷師たちをも敵に回すことになり、彼らが「あなたたちを裁く者となる」ということです。
 続けてイエス様はご自身のなされたわざについて「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と結論されます。議論なので逆説的になっていますが、神の国が来たしるしとしてイエス様は神の霊によって癒しを行われたのです。

 しるしである神の霊の働きを否定するのであれば、神の国の到来をも否定することになります。神の国の訪れを否定することは、すなわち神の国に敵意を示すことになります。神の国に「敵対し」その民を「散らしている」のだ、とイエス様は厳しく責めました。
 「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」との良い知らせが福音書から私たちに与えられています。

2.神の霊の働き
 悪霊やベルゼブルはともかく、霊あるいは神の霊について私たちは聖書からよく読み取る必要があります。聖書はいくつもの箇所で聖霊について証言していますが、目で見たり手で触ったりできないものなのでその働きにおいて知ることになります。
 特に救い主であるイエス様との関係においては、使徒信条でも告白しているとおり「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」ました。ヨハネよりバプテスマを受けた際に、天が開け鳩のようにイエス様へと降ったのも神の霊です(3:16)。その後イエス様は神の霊の導きで荒れ野へ行かれ、悪魔の誘惑に遭われました(4:1)。神の霊によって人々から悪霊が追い出され、十字架の後に死者の中からイエス様を復活させたのも神の霊でした(ローマ8:11)。地上における神の子の生涯はすべて神の霊によるのです。

 ですから神の霊について否定されたり冒瀆されたりすることは、イエス様にとってご自分を亡き者にされることと同じ意味をなすわけです。聖霊は「これはわたしの愛する子」(3:17)と語られた御父から御子への愛の絆であり、独り子をお与えになったほどの世に対する愛 (ヨハネ3:16)のしるしなのです。このご愛を踏みにじられることは、心底耐え難い苦しみと痛みが伴うことです。
 「だから、言っておく」(31)とイエス様は言葉を続けられました。神の子ですが、血の通った肉体を取られています。聖書は書き文字であり活字で印刷されているのでイエス様の表情を見ることはできませんが、感情をあらわにしてファリサイ派の人たちに向き合わられたのだと思われます。「だから、お前たちにこれだけは言っておく」と怒りと憤りを込めた口調だったかもしれません。

 「人の子に言い逆らう者は赦される」(32)とは言い逆らってもよいという許容ではありません。ここではあくまでも神の霊に対する冒瀆や反逆について徹底的な断罪がなされています。そもそも預言者たちによって示された救い主メシアに逆らうことなど、神の民としてありえないことです。
 日本語的に補うことが許されるなら「百歩譲って人の子に言い逆らう者を赦するとしても」と、強調のために最大限の譲歩を示したと読むこともできるのではないでしょうか。なぜなら先に述べたように地上における人の子の存在そのものが神の霊によるものなので、どちらかだけに従ったり逆らったりということはできないからです。

 ところで聖書の中で「霊」と訳されている語は旧約においても新約において「風」あるいは「息」と訳される語が用いられています。したがって「神の霊」と記されている部分は「神の風」「神の息吹」と直訳することができ、イエス様ご自身も「風」と「霊」をかけて説かれたこともあります(ヨハネ3:8)。ペンテコステの日に弟子たちへ聖霊が与えられたときには激しい風が吹いてくるような音がしたとの描写があります(使徒2:2)。
 人間の息であれば強く吹いても届いて1~2メートル、長く吹いても1分以上続けることは一般には難しいでしょう。しかし神の息、地表を思いのままに吹く風は海のかなたから地の果てに至るまで、丘を越えて谷を越えて吹き抜けて行きます。一晩中どころか幾日も風が吹き続けることあります。

 現代の私たちは空気という気体、すなわち物質があることを知っています。しかしそれらを目で見たり手で感じたりすることはできません。あたかも何もないかのようですが、突風や竜巻ともなれば日本でも例年のように被害が報じられるほどの甚大な力を発揮します。そしてその存在を知っていたとしても、人間の力で押さえつけることはできません。
 もちろんこれは霊ではなく風の話ですが、神の霊も同様です。聖書を読まなければその存在さえ知られることはありません。聖霊という名前を聞いていても、目で見たり手で触ったりできません。しかし肉体が息をして生きているように、キリストにあって新しく生まれた者はこの場を満たす神の霊によって生かされています。

 空気がなければ息ができないように、聖霊を否む者は神の前に生きることはできません。また聖霊によって新しく生まれた者を損ねることは神の霊に逆らうことになります。あなたが新しく生まれた者であるなら、与えられている聖霊の故にキリストご自身が敵の前で弁護してくださいます。
 「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と。

<結び> 
 福音書が記されたのはこの出来事から30年あるいは40年と月日が過ぎた後のことです。イエス様に関わる事実を記したものに間違いありませんが、当時の教会において書き文字で残さなければならないほど切実な必要があったということです。そして聖霊の導きによって正典として残されていることですから、いつの時代のどこの地域にあっても神の国としての教会に欠かすことができない教えであります。
 「内輪で争えば」とのイエス様のお言葉を取り上げれば、使徒パウロが手紙の中で何度も扱った分裂や分派、仲間割れ、差別や偏見という教会内の諸問題が思い起こされます。残念ながらキリストのからだである教会の中にも、ユダヤのファリサイ派の人たちのような者がたびたび現れうることを意味します。あまり考えたくありませんが、自分を正しいと主張する人たちによって他の人々が虐げられる場面もありうることです。

 これらは単に人間関係のこじれにとどまらず、「“霊”に対する冒瀆」「聖霊に言い逆らう者」となって「わたしと一緒に集めない者は散らしている」とイエス様を苦しめることになります。
 しかしイエス様は「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と神の霊によって悪霊を追い出されました。神の国すなわち神の支配が及ぶところには必ず神の霊が働かれます。人間の力や知恵によってことをなす時に争いがおこるとしても、教会とその一人一人に与えられる聖霊の力に委ねるなら神の国とその平和が実現されます。

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