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「教会の一致と交わり」マタイによる福音書18章10-20節

2021年9月5日
担任教師 武石晃正

 先週より緊急事態宣言に対応しての礼拝を行っております。一人一人においても教会においても困難を覚えるところですが、祈りと忍耐とによって各々の場所で礼拝が捧げられていることを主に感謝します。どこにおいても主が共におられることの証となります。

 主にある教会は福音書が記された時代から今に至るまで様々な困難に直面してきました。歴史上の教会において、時には為政者その他の権力からの迫害、時には疫病、時には教会内における争いや分裂がありました。
 キリストを信じれば救われると聞いて信仰の道に入ったものの、困難ばかりが続くということもあるでしょう。本当に神様は守ってくださるのかとつぶやきたくなるような場面は、信仰者であれば大なり小なり何度も経験するところです。

 イエス様はやがて天にお帰りになることを思い、予めお弟子たちに後々のことまで言い含めておられました。弟子たちはペンテコステの後、教会を建て上げながらその教えを口伝えで広めていきました。
 その教えの中には天の国がこの世の国から受ける迫害や困難のこともありました。また特に困難に際して教会内に起こりうる仲間割れや分裂のこともありました。かつてイエス様を前に「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」と求めた弟子たちが、回顧と自戒の念を込めながら伝えたであろう教えが開かれています。


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1.「小さな者」をも救われる主(10-14節)
 本日の箇所はその内容から2つの段落に区切られています。14節までを一区切りとして新共同訳聖書では「迷い出た羊」のたとえと見出しが付けられています。天の国が百匹の羊を持っている人にたとえられています。
 このたとえによる教えに先立って「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」(10)と言われています。話の発端としてマタイは弟子が互いに「誰がいちばん偉いのか」と競り合っていた出来事を示しています(1)。

 熱心なことはよいのです。主なる神様へ最上のものをお捧げすることは正しいことです。けれどもそのために誰かを引き降ろしたり、踏み台にしたりするのでは本末転倒です。降ろされた者や踏まれた者がつまずくばかりでなく、その様子を見ていた人をも驚き悲しませててしまうからです。
 旧約聖書の中で「善人すぎるな、賢すぎるな」(箴言7:16)と教えられています。一人の人が自分を立派であると考えて、他の人を取るに足らない「小さな者」と見なしてしまうこともあるでしょう。同じ価値観を持つ人たちだけが集まるときに、そこに同調しない人を差別してしまうこともあり得ます。多勢に無勢、少数派が取るに足らない「小さな者」として扱われるのです。

 今は「小さな者」と見られる者でも、世の終わりに天使たちが集めてより分けるまで真の価値は誰にも分からないことです。その天使たちでさえ今は手を下すことなく、御顔を仰ぎながら天の父の決定を待っています。あなたがたが裁いたり人の価値を値踏みしたりするではないのだ、とイエス様はおっしゃっています。
 そこで羊を100匹持っている人のたとえが語られます。迷い出た1匹は残りの99匹と比べれば、数の上では取るにならない「小さな者」です。しかし羊飼いにとっては99匹のうちの1匹も迷い出た1匹も、等しく1匹の価値があります。

 「九十九匹を山に残しておいて」と言われております。山は昼間に放牧地に放されている羊たちが夕方までに連れ帰られる場所です。山肌や岩場の裂け目を利用した「羊の囲い」(ヨハネ10:1)に99匹を収めてから、羊飼いは1匹のために命がけの捜索を始めます。
 迷い出たのが小羊の場合、羊飼いは棍棒でその脚の骨を折ることがあるそうです。添え木で手当てをされた小羊は、骨折が治るまでのあいだずっと羊飼いに担がれて過ごします。「迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶ」とは、この1匹を担いでいる羊飼いの様子なのでしょう。迷った1匹が99匹分の価値があると言われているわけではなく、99匹の羊たちも1匹1匹が大切な羊なのです。

 「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14)とイエス様は弟子たちに、そして私たちに語られます。

2.罪を犯した兄弟を受け入れる(15-17節)
 2つ目の段落に「兄弟の忠告」と見出しが付けられておりますが、まずその前半部分の17節までを読み進めましょう。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」(15)と言われています。この兄弟という語は肉親の「きょうだい」よりも広い意味で用いられています。

 弟子たちばかりでなくイエス様も「ダビデの子孫」としてユダヤ人としてお生まれになりました。天地創造の神様が選ばれたアブラハムの子孫は、12部族からなる大きな家族です。イスラエルは王国であると同時に神の家族という共同体であり、その同国民はみなアブラハムを父とする「きょうだい」でした。
 その「きょうだい」が犯した罪について、ここでは神様に対してではなく「あなたに対して」と書かれていることに目が留まります。14節の意を汲むならば天の父の御心はこの人を赦して救い出すことにあります。それでもあなたにまだ赦せないという思いがあるのであれば、人々に言い広めるまえにまずは二人で話をしなさいと勧められているようです。

 神の家族の中で罪を犯したと言われた者は、共同体から追放されてしまいます。神の民としての契約から断ち切られるならばこの地に住む場所を見出すことができず、さらには神様に恵みを求めることも立ち帰る機会をも失ってしまうでしょう。
 二人だけで和解できれば「兄弟を得たこと」になり、相手ばかりでなくあなた自身も神の前に生かされるのです。それで話が通じないのであれば、もしかするとあなたの証言が偏っているのかもしれない、だから1人か2人を連れて行って確かめよと勧められます。

 この手順はもともとイスラエルの掟、律法の中で人を裁くために記されていました(申命記19:15)。しかし御父は一人でも滅びることがないことを御心におかれ、御子イエスは弟子たちにご自身の血による新しい契約を与えられた方です。
 「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と、人を罪に定める議会ではなくご自分のもとへと連れ帰るように招かれています。あなたが帰る家はここなのだよ、と教会はその罪を犯したであろう「きょうだい」を迎えいれるのです。

 初めから「異邦人か徴税人と同様に」見なすのが目的であれば、何もこれほど面倒な手順は踏まなくて済むはずです。何とか失われたくないと願うので、教会は祈りと忍耐をもってあの手この手を尽くすのです。
 時には話をすることも拒んで背を向けて出ていく人がおり、あるいは教会の中であるのに乱暴なことばを叫んで当たり散らす人を見たことがあります。このような人たちのことを思うととても悲しい思いがいたしますし、天の父もまた悲しまれていることでしょう。

 「異邦人か徴税人」はユダヤ社会での用語ですので、新しい契約にある教会には相容れない表現です。はじめからいなかったも同然であるとの含みであれば、それ以上傷ついてまで背負わなくてもよいと主が教会をかばってくださっているようにも読み取れます。
 一人でも滅びることを御心としない方は、99人をも愛しておられることを覚えます。

3.心を一つにして求める(18-20節) 
 ここで「はっきり言っておく」とイエス様が弟子たちに迫ります。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 これはペトロの信仰告白に対して、イエス様が「わたしの教会を建てる」と宣言されたときのお言葉と同じです(16:15-19)。この約束はペトロ個人にだけ与えられたのではなく、心を一つにしてイエス様の教えを受ける弟子たち一同に与えられたものだと分かります。
 迫害が強まり殉教者が絶えない時代に福音書が記されたことを覚えます。天の国が多くの民族や国民に伝えられると同時に、教会の中に分裂や仲間割れも増えました。この世の困難に窮する中で、教会から居場所を失った人は一体どこで神と出会えるのでしょう。

 「つなぐこと」は拘束すること、禁止することの意味です。「解くこと」はその逆で自由の身とし、許可することです。その権威が教会に委ねられています。
 教会が誰かを締め出したりつまずかせたりすることがあれば、その人は生きているうちに天の国への行き場を失ってしまいます。教会に居場所を得られるならば、この世でどんな困難に遭ったとしても天の国に帰る希望を見失うことはないでしょう。

 もし仮に止むを得ず教会が「異邦人か徴税人と同様に」見なさなければならない人が出たとしても、教会の中の誰か一人でもその人と繋がっていれば望みがあります。二人が心を一つにして求めるなら天の父がかなえてくださるのです。
 更にもう一人の協力が得られるならば光が見えてきます。二人または三人が主の名によって集まるならその中に御子がおられます。「神の国はあなたがたの間にある」と言われたのですから、御子がおられるならばそこは天の国です。

 教会が一致をもって祈り、交わりのうちに執り成すとき、御父と御子の御心がなされご聖霊が働かれます。三位一体の神のみわざがなされるなら、どこであっても確かにそこは天の国です。教会に一致と交わりがあるならば、99匹がいる囲いの外で迷い出た1匹が助け出されるのです。

<結び>  
 困難の中に置かれると目に見える物事に心を奪われやすく、この世の知恵や言葉に圧されてしまうことがあります。一堂に会することができないので、羊が迷い出やすいこともあるでしょう。
 「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(20)

 相集うことができなくとも祈りによって教会に一致と交わりがあるなら、困難の中でもそこは天の国であり私たちは神の民です。そしてこの世に対して天の国の救いがもたらされる場所です。

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