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「隣人を愛する」マタイによる福音書18章21-35節

2021年9月12日
担任教師 武石晃正

 「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(18:1)とイエス様のお弟子さんたちはいつも気にしていたようです。教会の中で「私が一番偉い」と名乗り出る人は滅多におられないとは思いますが、人の目を互いに気にしてしまうという場面がおありではないでしょうか。
 偉いかどうかはともかくとして、教会以外の普段の生活においても自分と他人との間に優劣をつけてしまうこともあります。「なんであの人からこんなこと言われなくちゃならないんだ」と感じるとき、それが全くいわれのない出まかせであれば別ですが、無意識にも「あの人」を自分より見下げてしまっているものです。

 人を赦すという愛の行為においても、「赦してあげる」という上からの目線で相手を見てしまったり、何らかの貸しを作ってしまったりとなかなか難しいものです。赦したつもりなのに、あるいは仲直りをしたはずなのに、悶々としてしまうこともあるわけです。
 本日は朗読した箇所を中心に「隣人を愛する」と題して、特に赦すという一面から考える機会が与えられています。

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1.何回赦すべきか(21-22節)
 イエス様は弟子たちに羊飼いのたとえをもって「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14)と御心を示しました。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(19)と、たとえ教会全体の理解を得られないとしても誰か1人2人がつながることで「小さな者」の一人が何とか救われることを願っておられます。
 そこでペトロが進み出て「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問をしました(21)。ユダヤの慣習では3度までは赦すように教えられていたそうですから(ヨブ33:29参照)、それよりも忍耐を示した様子が伝わります。

 7回という数字を見て多いととるか少ないととるか、それぞれの感じ方がおありかと思います。ルカによる福音書ではイエス様が「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17:4)と教えておられますから、ペトロの念頭にはこの7回が浮かんだとも考えられます。
 ところが今ここで扱われている罪とは、事と次第によっては「その人を異邦人か徴税人と同様に見なし」て共同体から追い出さなければならないほどの重いものです。一人二人が何度も足を運んで話をして、何とか助けるために教会へ申し出なければならないほどの案件です。

 一日に何回も起こり得るような些細なことではなく、生涯に1回あるかないかという深刻な問題です。財産や人のいのちに関わるような重大なものであれば、1回赦すだけでも普通の人なら「もうたくさんだ」と思うほどの出来事を指します。
 それを3回も赦すということは3回も大変な目に遭うことを意味します。まして7回など到底あり得ないことです。それでも7回目までは赦そうと考えたペトロは、まさか8回目に復讐や懲らしめをしてやろうと思うことなどないはずです。他の弟子たちにしても、そもそも3回だけでも十分だと考えていたことでしょう。

 けれどもイエス様のお答えは弟子たちの思いをはるかに超えて「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」というものでした(22)。7の70倍なら490回、1日1回だとしても1年をはるかに上回ります。どんな些細な悪意であっても1年以上も毎日繰り返されたとすれば、赦す赦さないということ以前に気が滅入ってしまいそうです。
 もし仮に490回も赦すことができたとしましょう。490回を数えていたということは、許さなくてよい491回目を待っていたことにならないでしょうか。そうだとすれば490回赦したのではなく490回の我慢をしただけになってしまいます。義務的に赦そうとすれば、逆に490回赦さなかったという事実が積み重なってしまうのです。

 7という数字は聖書の中で特別な意味があります。天地創造において主は7日目の安息をもって仕事を完成されました(創世記2:1-2)。7は完全数と言われていますが、ただ完全なのではなく安息や安らぎがあるのです。イエス様が「七の七十倍までも赦しなさい」とおっしゃるとき、それは最初から帳消しにすることを意味しています。

2.家来を赦した君主のたとえ(23-35節)
 天の父を王と仰ぐとき、その民は家来です。イエス様は主君と家来との関係にたとえて主なる神様の御思いを説かれました。「ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした」(23)と語られます。
 ある家来の借金の額は1万タラントン、1タラントンは6000デナリオンで1デナリオンは当時の労働者の日当にあたると言われています。貨幣制度や生活物価が全く異なりますので今の日本円の価値で量ることはできませんが、単純に数字の上だけで計算すると数千億円から数兆円になります。ですからここでイエス様は個々人の日常生活という次元より、はるかに大きな括りで扱っておられることが分かります

 借金の規模から考えますと、この家来は王の事業や統治の一部を委ねられていたのでしょう。そして彼は妻や子に自分の財産や領地を分け与えていたので、主君はそれらを売ってしまえと言ったのです。すると家来は「どうか待ってください」とひれ伏して願ったものですから、主君はとても憐れに思って借金を帳消しにしてやったということです(27)。
 小国が一つ売り買いされるほどの借金が帳消しにするなどにわかには信じられないことですが、驚くべきは借金の額もさながら、むしろ主君が帳消しにするほどまで家来を憐れに思ったということです。

 ところで、かつてイスラエルは7年ごとの安息年(休耕の年)を50年目のヨベルの年と併せて70回も怠ったという大きな背きを神様に対して犯しました。怠られた安息をこの地が取り戻すまで、70年の期間がバビロン捕囚と定められました。背きの期間と捕囚の期間を合わせると7を70倍する490年になりますが、主は滅ぼすことなく時を定めて解放されました。
 家来であるイスラエルは自分では償いきれない借金を、主人である神様に帳消しにしてもらったのです。ここに神様の契約の確かさと憐れみ深さが示されます。

 さて借金を帳消しにされた家来は外に出ると仲間から100デナリオンの借金を厳しく取り立て、返せないと分かると容赦なく牢に入れてしましました(28-30)。100日分の賃金に相当しますから、100日間の労役ということでしょう。
 このことについて「仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め」ました。イエス様が見ておられるのは借金の額の大きさではなく、憐れみの心なのです。たとえ借金を返してもらうことが正当な権利だとしても、時と場所や手段を選ぶことは必要です。乱暴な扱いを受けた当人ばかりでなく周りの人々も心を痛めてしまうのですから、金銭では償うことができない大きな痛手となります。

 「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」とは主君のことばとして語られていますが、天の御父がその民に向けた御心です。「何回赦すべきでしょうか」という問う者が相手の罪を帳消しにするつもりないのであれば、3回でも7回でも何度でも取り立てに行くようなものだ言われているようです。
 たとえによる教えは人々がハッと気がつくようにかなり強調した内容が語られます。家来は語られた当時においてはイスラエルを指しますが、新しい契約においては教会に当てられます。神様が「債務証書」を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです(コロサイ2:14)。

 主の家来にあたる教会は支払いきれない借金を帳消しにしていただいたので、「これらの小さな者が一人でも滅びること」がないように憐れみを示すのです。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(35)とは、何回赦すかと問わずに帳消しにすることを命じておられます。

<結び>  
 「隣人を愛する」と題しましたが隣人の「隣」という漢字の部首はこざとへんです。もともと丘や盛り土の向こう側、隔たりのあちら側にいる隣人もおります。隔たりを外して心を込めてればりっしんべん、「憐」あわれみの一字に改まります。隣人を愛することは憐れみをかけることだと漢字のかたちからも教えられる気がいたします

 おわりに主の兄弟ヤコブ(ガラテヤ1:19)のことばをお読みします。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)
 7を70倍まで赦しても次の1回で裁いてしまえば490回裁き続けたのと同じこと、それは容赦のない仕打ちとなってしまうでしょう。

 隣人を愛すること、その深い憐れみは、私たちが誰かを裁してしまう思いにさえ打ち勝つことができるのです。何よりも主イエス様が私たちのすべての罪を十字架上で帳消しにしてくださったご愛を覚えます。

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