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「荒れ野の誘惑」マルコによる福音書1章12-15節

2022年3月6日
牧師 武石晃正

 3月を迎えまして、折しも今年の教会暦では今週よりレント(受難週)に入りました。
 レントはイースター(復活節)からさかのぼって定められるので、イースターが早い年では2月前半から始まります。今年のイースターは4月17日ですから比較的遅いほうです。

 毎年イースターの日付が違うのはイエス様が十字架にかけられたのがユダヤの過越祭という祭の時期だったことに関係しています。月の満ち欠けに従うユダヤの暦に倣って、教会は春分と満月からイースターの日付を決めることにしました(325年ニカイア公会議)。このために私たちが普段使っているカレンダー上では毎年イースターの日付が変わってしまうのです。
 暦の日付は変わったとしても、決して変わることがないのがイエス様のご愛です。今週より受難週としてイエス様が私たちと同様に試練に遭われたことを覚えて参ります。

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1.荒れ野の誘惑
 マルコによる福音書は共観福音書と呼ばれる3つの福音書のうち、マタイやルカと比べて内容が端的です。降誕のことについては触れておらず、使徒たちが直接に見聞きした洗礼者ヨハネから記しています。
 この洗礼者ヨハネを以って「神の子イエス・キリストの福音の初め」としていますから、ヨハネ抜きにはイエス様の公生涯は語り得ないということです。ヨハネが予め神の国の訪れと悔い改めを説いていたので、イエス様は速やかに宣教に入ることができました。

 イスラエルの北方にあるガリラヤ地方、そのナザレという町でイエス様はヨセフの子である大工として知られていました。マリアとヨセフはユダヤの祭である過越祭になると毎年エルサレムへ上ったので(ルカ2:41)、成人されたイエス様も習わしに従ったことでしょう。ガリラヤからユダヤ地方へ巡礼する街道沿い、荒れ野に面したヨルダン川のほとりで洗礼者ヨハネが説教と洗礼を行っていました。
 ある年のこと、イエス様もユダヤ人の一人としてヨハネのもとを訪れ、神の子でありながら悔い改めの洗礼を受けられました。ヨハネの弟子となることで多くの人々から広く受け入れられるばかりでなく、罪人が御父のもとへ立ち返るお手本となるためでした。

 そこから洗礼者ヨハネが捕らえられるまでの間は、一旦イエス様はガリラヤとユダヤの境に近い地域でヨハネと同じ働きをなさいました(ヨハネ3:22-24)。一派として働くにあたり、ヨハネと同じように荒れ野での生活に身を置かれました。その後でガリラヤに退かれたということになります。
 洗礼を受けた川から身を起こしたイエス様は、天から聞こえる御父の声とともに“霊”をお受けになりました。すると主の霊はイエス様を促して荒れ野へと導かれました(12)。単にヨハネの一派として荒れ野に住まわれたというだけでなく、サタンから誘惑を受けるために40日間とどまられたと記されています。

 この40日という日数は神の人モーセのことを思い起こさせます。マタイはイエス様が誘惑に遭われたばかりでなく、「昼も夜も断食した」と記しています。モーセがシナイ山の上で主と共に過ごした際に「パンも食べず、水も飲まなかった」日数と重なります(出34:28)。モーセに律法を授けた方が、今度は自ら御父の前に身一つで立たれたことを思います。
 荒れ野でサタンから誘惑を受ける間、イエス様は「野獣と一緒におられた」(13)とあります。同じ40日でもモーセとイエス様とは違いがあります。山の上か荒れ野かというばかりでなく、周りに人や獣がいたかどうかということです。

 モーセが律法を授かる時、その山について「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令がありました(ヘブライ12:20、出19:12-13)。モーセはこの命令によって身が守られていましたが、イエス様は誘惑に来るサタンと荒れ野の獣たちに狙われていたのです。空腹の上に野獣とはまさに死の危険そのものです。
 その荒れ野には文字通りに野の獣がうろついていたことでしょう。あるいは使徒パウロはキリストの敵を野獣と呼ぶことがありますから(一コリ15:32)、つまりここではサタンが付きまとっていた様子とも受け取れましょう。

 それが実際の獣だとしてもサタンを指すものだとしても、イエス様は自ら手を下すことをなさろうとはしませんでした。「獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない」と命じられた御父にすべてを委ね、天使が仕えるに任せていたのです。
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声に信頼し、その身と魂とを委ねられました。御父に対する全幅の信頼は荒れ野の誘惑から十字架に至るまで崩れることなく、主は「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(一ペト2:23)。これがキリストの受難の姿です。

 さて、荒れ野から戻られたイエス様はヨハネが捕らえられるとガリラヤでご自身を世に現わされました。いよいよ時が満ちたのです。「わたしよりも優れた方が、後から来られる」とヨハネが言った通りになりました。
 しなやかな服を着た人は王宮におりましたが、神の子は何と荒れ野におりました。荒れ野で渇きと飢えとを味わわれ、試みる者の誘惑に苦しめられた方です。わたしたちと同様に試練に遭われた方が悩み苦しみのうちにある者たちへ神の国の福音を宣べ伝えます。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15)。


2.誘惑を受けられた意味
 同じく荒れ野の誘惑について記しているマタイやルカにおいては、40日の終わりにサタンが3つの試みをしたことが記されています。その問答の中でイエス様は試みる者に対して「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになりました。
 試してはならないという掟でありますので、神である御子を誘惑することもまた赦されざることであるはずです。ところがイエス様は霊に導かれて荒れ野へ行かれたというのですから、神を試ることについて御子と聖霊とが合意していたことになります。

 単に誘惑や試みに遭われるだけでしたら、荒れ野に行かずとも町の中には律法学者やファリサイ派の人たちが待ち構えています。わざわざ荒れ野に出てまでサタンの誘惑をお受けになった理由として、ここでは二つ挙げておきましょう。
 まず一つは洗礼者ヨハネの弟子になったということです。ヨハネが荒布をまとって野で暮らした様はユダヤの人々に旧約の預言者たちを彷彿させましたが、イエス様もまたガリラヤで神から遣わされた預言者としての働きを始められました。

 もう一つは独り子である神が全き人として生きるための試練です。すなわち私たちと同じ普通の人間として生きて行けるかどうかが試されたということです。
 鍵となるのは「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(12)という点であり、マタイもルカもそのことを明らかにしています。旧約聖書には神の霊が人間に降ったときに並外れた力を発揮したことがいくつも記されています。

 旧約において士師や預言者はもともと普通の人間でした。ただの人であるのに主の霊が降るとサウル王は急に預言をし(サム上10章)、預言者エリヤは数十キロメートルの道のりを駆け抜けたということです(王上18:48)。町の中には到底とどめておくことができない勢いなので、荒れ野に出ざるを得なかったとも考えられます。
 新約でも弟子たちに霊が降ると人々が驚き怪しむほどの不思議なわざが起こりました。神の霊が降るとただの人であってもこれほど大きな力を現しますので、主の霊によって生まれたイエス様であればどれほどの勢いでしょうか。人としてお生まれになったとはいえそもそも神ご自身ですから、霊が降れば御使いにまさる力を発揮してしまうでしょう。

 全知全能の神であり御心ひとつ御言葉ひとつで何でもおできになります。しかしそのお力を思うままに行使してしまっては人間の領分を超えてしまい、律法の完成も罪の贖いも人間として成し遂げることができなくなるのです。
 すると救いのご計画は台無し、サタンの不戦勝による一人勝ちが確定します。そんなことにならないためにも、イエス様は40日40夜を通して荒れ野で試練に遭われたのです。こうして独り子である神がわたしたちの弱さに同情できる大祭司となられました。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」(フィリピ2:6)、「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。荒れ野の誘惑においてイエス様は私たちのために弱い者となってくださいました。
 
<結び> 
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15)

 この世は罪に満ちており、本来であれば神の国の敵です。神の国が近づくとは、創造主なる神様がご自分の所有である被造物を取り戻すために攻め込んでくる様です。
 近づきつつあるうち敵意を捨て、国境を越えてくる前に勧告を受け入れれば滅ぼされずに済むのです。しかし聞き入れない者が多いので、御子みずから世に来られました。

 キリストの苦しみは十字架でお命を捨てられたことだけでなく、自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられたところから始まりました。あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
 私たちが荒れ野に置かれているように感じる時であっても、まさにその渦中にイエス様が共におられることを感謝します。

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