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「何か見えるか」マルコによる福音書8章22-26節

2022年7月24日
牧師 武石晃正

 しばらく日が経った話になりますが、先日7月5日にホーリネスの群では夏期セミナーを催しました。インターネット環境を用いたオンライン参加によるセミナーでありまして、当日参加できなかった方でも講演の内容を録画したものを後から視聴することができます。
 今年の主題はディボーション、言い換えますと日々の聖書と祈りの生活を充実させようというところです。信仰生活の長い皆さまは既に身についているご自分なりの習慣がおありですが、時に他の方のお証しを聞くことで共感や気づきを得られる機会となりましょう。

 さて本日はマルコによる福音書より「何か見えるか」と題して読んで参ります。私たちについてイエス様がどのように関心を持っておられるのか、あるいはイエス様へどのように私たちが応えることができるか、少しでも得ることができれば幸いです。

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1.「何か見えるか」
 新約聖書には4つの福音書が収められておりまして、4人の記者がそれぞれの視点からイエス・キリストの言行録を記しています。その中でもマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は共通する記事が多いことから共観福音書と呼ばれています。
 およそ3年半と考えらますイエス様の公生涯のうち、そのほとんどがイスラエルの北部にあるガリラヤ地方の巡回伝道と弟子訓練におかれました。その道中において「一行はベトサイダに着いた」との一場面であります(22)。

 ベトサイダでのこの出来事は共観福音書においてもマルコだけが記しています。マタイとルカは揃って同じくガリラヤ地方の町コラジンの名を挙げながら、ベトサイダについてイエス様のお言葉を記しています。
 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない」(マタイ11:21)。どのような奇跡が行われたのかをマルコが著し、イエス様がベトサイダの人々の頑なさをお叱りになったとマタイとルカが記したというところでしょう。

 ある人々が一人の盲人をイエス様のところへ連れてきました。当時のユダヤでは目が見えないことは誰かが罪を犯した結果であると考えられておりました (ヨハネ9:2)。使徒パウロもイエス様にその目から光を奪われたことによって、取り返しのつかない罪を犯していたことを示されました(使徒9:3-9)。
 はっきりとは書かれていませんが、ベトサイダの人たちが目の不自由な人を連れてきたのは単に助けたいという思いからだけではないようです。罪を赦す権威を持っているかどうかと、ナザレ人イエス様を試そうとしたようにも見受けられます。

 奇跡が行われても悔い改めようとしない人々を避けるように、イエス様はこの盲人を町の外へと連れ出しました(23)。そしてなんとそこでこの人の両目に唾をつけたというのです。本人ばかりか周りで見ている弟子たちも驚いたことでしょう。
 光を失っていたこの人の両目をイエス様はご自分の両手で覆い、「何か見えるか」とお尋ねになりました。「何か見えるかな」と期待に満ちた響きにも感じられます。

 目隠しをしていたイエス様の手が取られるや、この盲人の両目にたちまち光が差したのです(24)。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
 真っ暗闇だったこの人の心に明るい光が差し込みました。光を取り戻しただけでなく、見えるようになったのです。

 木のようであるとはなかなかうまい言い方です。ぼんやりとしていても手足の区別はでき、それが人影であることまでは分かるのです。
 つい今の今まで目が見えませんでしたから、耳で聞き分ける力は長けています。顔を見分けることはできなくとも、声あるいは足音でも感じればそれが誰であるのか分かります。

 きっとこの人は嬉しさのあまり飛び上がり、次のようなことを言ったでしょう。「先生、ありがとうございます、もう大丈夫です。これからは人の手を借りなくてもおもてを歩くことができます。もう誰からも光を失った者とか罪を背負わされた者などと後ろ指を指されなくて済むようになりました」。
 ところがイエス様はこの人を引き留め、もう一度両手をその目に当てられました(25)。本人は見えるようになったつもり、あるいはもう十分だと思ったとしても、イエス様はきちんと見えるようになってほしいと願っておられるのです。

 今度はどうでしょうか、覆っていた手が外されて周りの景色が見えてきます。先ほどよりもよく見えるようになると期待して目をじっと凝らしていきます。すると「よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」のです。
 目が開かれるだけでも御の字ですから、それ以上を求めることは贅沢やわがままのように私たちは考えてしまうこともあるでしょう。けれどもイエス様は物惜しみすることなく、求める者には恵みを豊かに与え、必要なだけ十分に満たそうとしてくださいます。

 このベトサイダで連れて来られた盲人は、まさか自分の目が再び光を得ることがあろうとは思いもよらないことでした。イエス様でも無理だろうと勝手に決めつけてしまったなら、見えるようにしていただく機会を逃してしまうでしょう。ぼやけているのに見えていると思い込んでしまったなら、せっかく目を開いていただいたのにその後も手探りしながら生きていくことになります。
 何が私たちに必要であるか知っておられながらも、イエス様は「何か見えるか」といつもお心をかけてくださいます。罪を犯すことであったり、わがままや身勝手な願いであっては困りますが、私たちの主は「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」(エフェソ3:20)なのです。


2.真理の土台であり柱である神の教会 (テモテ一3:14-16)
 マルコは福音書の中でイエス様と癒された盲人とのやり取りだけを記しています。しかし村の外に連れて行かれた上で「人が見えます」と証言していることから、イエス様の弟子たちがこの人を取り巻いていたことが分かります。
 もしイエス様と二人きりで手を引かれて行ったなら、いったいどのような心持ちだったでしょうか。この人を信用してもよいのだろうか、一度失った光を取り戻すことなど到底ありえないことだろう、と躊躇したり疑ったりしたことでしょう。

 いつもイエス様は行く先々の町で病人を癒し、目の見えない人が見えるように、足の不自由な人が歩きだすようになったのを弟子たちは見てきました。実際に何度も目の当たりにしてきた恵みのみわざ、自らも味わっている罪の赦しを弟子たちはこの人にも証言したことでしょう。この方に信頼し、求めるすべてを委ねなさいと。
 私たちの祈りの生活も相通じるものです。誰も神を見た者はいないのですから、祈ることも願うことも人伝いに教わります。その営みは初め主の弟子たちから伝わり、やがて教会へと引き継がれて参りました。教会を通して人は福音の真理に触れ、主に出会うのです。

 あの使徒パウロでさえ例外ではありませんでした。彼ほど律法すなわち当時の聖書に精通していた人はいないであろうにもかかわらず、アナニアという弟子に導かれる必要がありました(使徒9章)。回心してからはダマスコあるいはエルサレムにおいて、弟子の仲間に加わる必要がありました。
 その人自身に回心と信仰とは不可欠ですが、主の弟子として教会に結ばれてていることで正しくイエス様を知って正しく祈り求めることができるのです。あるいは祈り一つを取っても手ごたえを感じられない時などに、私たちは迷ったり独善的になったりしがちです。

 キリストを信じた者は神の子となる身分が与えられています。子どもですから帰る家があり、神の子が帰る先は神の家であります。
 「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」(テモテ一3:15)と使徒パウロを通して示されました。神の子とされた私たちが福音の真理にすがるにも立つにも、生ける神の教会があるのです。

 主は弟子たちの交わりである教会を通して私たちに正しい祈り求め方を示してくださいます。見えるようになりたいのであれば、はっきりと見えるようになるまで主に期待し続けることができるのです。


<結び>
 「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった。」

 救いにおいても癒しにおいても、私たちが求めるより先に主は私たちの必要を知って恵みを注いでくださいます。それは一方的に上から押し付けるのではなく、惜しみのない豊かな恵みです。
 ただ癒せばよいとか恩着せがましいものであったならば、私たちがこの方を心から愛することはとても難しいことになりましょう。けれども主イエス様は私たちの弱いところに手を置いてくださり、「何か見えるか」見えるようになったかなと優しく語り掛けてくださいます。

 ある一人の盲人はベトサイダの町で主イエスに出会い、主は彼に「何か見えるか」と呼びかけられました。今もなお主は真理の柱であり土台である生ける神の教会を通して、私たち一人一人に手を置いて信仰の目を開いてくださいます。
 週ごとの礼拝においてきよめ整えていただき、日々の聖書と祈りの生活によって主と共に歩ませていただきましょう。

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