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顧(かえり)みられる神

2017年1月15日
川崎 献一師
創世記16章

「顧みる」いう日本語を辞書で調べると3つの意味がありました。①振り向いて後ろをみる。または首を動かして周りの様子を見る ②過去を思い出してみる。③気にかける。この内、②と③が本日のテーマに近い意味でしょう。「顧みられる」とは、神への敬語です。13節のへブル語、エルは神、ロイが顧みと単純に受け取っていいでしょう。それぞれの生涯には、事情があります。中には複雑な場合もあり、子どもに知らせるのは後にした方がいいこともあります。それで、子どもが大人の話に口を挟む時、「大人の事情があるんだから」と子どもに言い聞かせることもあるでしょう。

本日のテキストは、不妊が続く高齢者サライが神の約束を待てず、アブラムに訴えた不信仰な姿勢から始まっています。でも、いつの間にか、サライの女奴隷ハガルにスポットが当たっています。これこそ、本日のテーマです。ハガルの生い立ちの不幸せ、女主人に虐められる不条理、神は全てを御存知のまま、ハガルと出会ってくださり、御言葉を与えられました。13節は、ハガルの神への賛美です。ハガルは、神の象徴としての天使を見続けていたのでしょう。聖なる神を見た者は死ぬと古代では、伝え聞いていたのに、ハガルは生きることを許されていました。後にハガルの体験は、泉のほとりの井戸で起きた出来事として、聖書を通して証しされています。

上町教会では、第4主日が伝道礼拝となっています。信徒から一人、証しをする人が立てられます。22日は、川口恵司さんが、その御用に当たりますが、私達も聖書の時代から見たら異邦人です。ユダヤ人以外の民族だからです。でも、この新約の時代、洗礼を受けて、神と出会ったことや日常生活で体験した神の恵みを語ることは、目には見えない神が、いつも共におられることを証しすることです。この文書を読まれた方も、是非、最寄りの教会へ。

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