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「御心を行う人」ヨハネによる福音書9章13-34節

2024年2月25日
牧師 武石晃正

 先週は急に気温が下がり、雨交じり雪交じりの天気が続きました。それでも日を追うごとに朝夕の明るい時間が伸びてきたように感じられます。
 暦の上では春を迎えたとはいえ冬の名残に身を震わせる日もございます。教会暦では受難節、復活の主を仰ぎつつも地上でお受けになられた苦難を覚えるところです。

 本日はヨハネによる福音書を開いております。前後の箇所を踏まえつつ朗読箇所を中心に「御心を行う人」と題して御言葉を読み解いて参りましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.見ることのできない目を開く主
 13節から朗読いたしましたが事の起こりは1節にあります。「イエスは通りすがりに」(1)とエルサレム神殿の境内からちょうど出て来られたところです。なぜ主は境内から出て来られたのでしょうか、それはファリサイ派と知られるユダヤ人たちに石で打ち殺されそうになったからです(8:59)。
 身を隠して出て来られた道すがらという場面でありまして、境内に通じる参道には大勢の物乞いたちがおりました。逃げて来られたわけですから何もここで引っかからなくてもよいのに、弟子たちは「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」(9:2)と質問をしたところです。

 現代の日本に生きている者にとって目が見えないことと本人あるいは親が犯した罪の間に結び付きを認めることはないでしょう。ところがユダヤの律法には「父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」(出20:5)と記されています。
 生まれつきということですから本人が罪を犯す以前の話なのです。それにも関わらず、主の弟子たちでさえ信じて疑わないほどの社会通念だったと言えましょう。

 ですから弟子たちに悪気がなかったことも分かります。とは申しましても、なにも当人の聞こえるところで言わなくてもよかったのではないでしょうか。
 そして弟子たちにとしては1回きりだったとしても、この人は幾度となく「だれが罪を犯したからですか」と聞かされて心をえぐられてきたのです。この日もラビと呼ばれたユダヤの偉い先生が幾ばくかの施しに添えて心ない言葉をかけるのでしょう。

 ところがこの方は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(3)と彼と彼の両親をかばってくださいました。そればかりかご自分こそ命を奪われているのに「神の業がこの人に現れるためである」と地面の土を唾でこねて目に塗られたのでした(6)。
 何をされているのかよく分からないまでも、自分や両親の罪のせいではないと言われたのは初めてのことです。命じられるままシロアムの池で塗られた泥を洗い落とすと、なんと生まれてからこの方ずっと見えなかった目が見えるようになりました。

 シロアムとは文中にあるように「遣わされた者」という意味であり、イスラエルの聖なる方は人の目をくらますことも明けることもおできになります。かつてイスラエルを王たちが治めていた時代、主から遣わされた預言者エリシャの祈りによって彼の従者の目は開かれ(列王下6:17)、敵である異邦の民の目がくらまされました(同18)。
 ところで同じ目が見えない人でも中途失明者であれば「見える」ということを知っているので、癒されたなら見えるようになるでしょう。しかしこの人は生まれながらに目が見えないので、目が開かれても「見る」ということは生まれて初めてのことでした。

 近所の人たちや彼を知っている者たちが俄かには信じられなかった様子から、この人が初めて目を使ったのに普通に見えていたのは明らかです。医学で治療されたのであれば機能の回復や訓練にそれ相応の時間と労力を要することですが、主なる神の癒しのみわざは新しい創造なのです。
 そうこうしているうちにイエス様はまた弟子たちを連れて追手から姿を隠されたようです。驚き怪しむ人々は生まれつき目が見えなかった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行くわけですが(13)、その日が安息日だったので(14)ますます話が難しくなりました。


2.御心を行う人と罪が残る人
 ファリサイ派の人々がいる神殿の境内へ連れて行かれたことから、この人の目はすっかり開いて見えるようになっていたことが示されます。というのも「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」というきまりがあったからです(サムエル下5:8)。
 「どうして見えるようになったのか」(15)と彼らは問いますが、目が開かれた過程を知ろうとしたのではないのです。証言によって安息日を守らなかった人物を特定し、ナザレ人イエスを捕えようという魂胆です。

 見えない目が開かれるのは神から遣わされた方によることは、預言者イザヤによって繰り返し語られました (イザヤ29:18、35:5、42:7)。「見えるようになったのです」と事実を聞いたことにより、救い主メシアのしるしであると分かったはずなのです。
 しかしファリサイ派の人々はナザレ人イエスを自分より優れていると認めたくないので、「神のもとから来た者ではない」と言いがかりをつけました。そしてその判断は先入観や思い込みによるため根拠に乏しく、従って彼らの中でも意見が分かれた次第です(16)。

 人を呼びつけるほどの威厳があるなら「いったい、お前はあの人をどう思うのか」(17)などと尋ねるまでもないでしょう。自分の判断に迷いや後ろめたさがあるのでこの人の口から「あの方は預言者です」と言わせたかったのです。
 「ユダヤ人たちはこの人について(中略)信じなかった」(18)とあるように、疑う者はどんな理由をつけてでも人に疑いをかけるものです。生まれながらに目が見えないのはこの人か親の罪のせいだと決めつけていたので、たったの今まで濡れ衣を着せられていた両親がここに呼び出されてきます。

 「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています」(20)と答えた両親は、息子と同じ苦しみを背負って生きてきました。罪の疑いをかけられ苦しめられてきたわけですから、ここで食い下がったところで執拗に言いがかりをつけられることも身をもって知っています。
 再び本人を呼び出したところで「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」(24)とは失礼にも程があります。知っているなら勝手におやりなさいと言うところでしょうか、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」(25)とこの人は言い返しました。

 「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25)とは何と立派な告白でしょう。「盲人であった人」「お前は全く罪の中に生まれたのに」と過去のことを蒸し返されても、今はキリストに救われたと事実に立って生きています。
 事実は事実、真実は真実ですからいくら議論しようとも曲がりようがないわけです。「彼らはののしって言った」(28)と書かれているように、疑う者や頑なな者は人の話を聞かないばかりか思うようにならないと平気で人を侮辱します。

 思えばファリサイ派の人々にも神殿や会堂を守ってきたという自負があり、その熱心さには敬服に値するほどです。けれども会堂や自分たちの権威を守ろうとすることによって、救われるべき魂がないがしろにされ失われようとしたのも然りです。
 他人を悪者にすることでしか自分を立てることができない人はどこにでもいるものです。しかし神の恵みを受けた人は「神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります」(31)と毅然として答えることができます。

 残念ながら正しい証しをする者が追い出される(34)ということが教会でも起こり得るのです。見た目には追い出した側が勝ちを収めたようですが、主は外に追い出されたことをお聞きになってこの人を探しに来てくださいました(35)。
 神殿や会堂から追い出されてもなお「主よ、信じます」(38)とひざまずく者に対して、イエス様は「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」(39)とお答えになります。キリストは「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と目を開かれた者と共に歩んでくださったのです。

 この後に同じエルサレムにおいてキリスト自身が神の民から迫害され、繰り返し尋問を受けて不当な判決を受けることになります。天の父の御心を行う人が都から追い出され、ゴルゴタの丘へと十字架に向かわれたのです。
 十字架と復活の主イエス・キリストは今もなお私たちに問われます。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(41)


<結び>
 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5:8)

 使徒パウロの言葉を引用しましたが、御心が行われ良いわざがなされる一方で光を理解しようとしない者たちもいるわけです。パウロは続けて「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(同5:10)とも命じました。
 信仰のゆえに傷つけれ、追い出された者に主は近くおられます。御心を行う人が祈る時、自らも苦しみを受けられた神が聞いてくださるのです。

「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります」(ヨハネ9:31)

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